銀閣寺
世界文化遺産であり、国宝の観音殿・銀閣を有する銀閣寺。修学旅行で訪れた人も多いのではないでしょうか。
行って参りましたので、歴史のおさらいをしながら、紅葉の様子などお伝えします。
まずは、概要をおさらい。
銀閣 慈照寺は相国寺の境外塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。
山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢想礎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。
室町幕府8代将軍足利義政は1473年に子に将軍職を譲り、1482年から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に臨時の税を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
1490年2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。
銀閣寺と言えば足利義政、日本史の教科書で習いましたね。金閣寺を建てた3代将軍、足利義満の孫でもあります。遠い記憶を思い出しながら、巡ってきました。武家や将軍家が庭・茶の湯の文化を紡いでいく、その歴史の始まりの場所です。
将軍の愛した庭園・茶の湯
作庭・夢想礎石の庭をモデルに
室町時代の歴代将軍は、庭園をよく好みました。三代将軍義光が営んだ北山殿は鹿苑寺庭園(金閣寺)として、八代将軍義政が営んだ東山殿は慈照寺庭園(銀閣寺)として、現代に伝わっています。いずれも西芳寺の庭園をモデルにしているとみられます。
西芳寺庭園の作庭をした夢想礎石は、自然の風光を愛し、作庭によって禅の境地を表現しました。また、自然の情景をモチーフにした平安時代の池庭に対し、中国の画論を作庭に導入し、風景を自分の感性で組み立て直した心象風景を石組によって表現しました。さらに高所からの眺望を法界( 因果の理に支配される万有の総体。全宇宙。)と見立て、庭園と一体となった境地と捉えました。
ただし、この銀閣寺の庭園は江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているといわれます。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」(こうげつだい)と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされています。
庭園内の高低差はかなりあります。修学旅行の小学生は、元気よく登って行きます。
登り切ると、絶景が出迎えてくれます。高いところから、紅葉も始まっていました。この眺望を、法界に見立てたのですね。
まだ、10月半ばは、蒼い紅葉。苔の色とのコントラストも楽しめました。
武士と茶の湯
足利家の子孫は15代まで、室町幕府の将軍でした。茶の湯の文化は8代義政の後も、武人たちの間で続きます。本能寺には織田信長の茶器が伝わっていますし、千利休はわび茶の完成者ですが、天下人・豊臣秀吉の側近でもありました。秀吉は大規模な野点(のだて・野外での茶会)で民衆の心を掴んだりもしていました。
茶の湯と武人、一見不釣り合いですが、つながりは、室町時代から強まっていったのです。武人からみれば、茶の湯は高い教養や文化の追求を内外に示すよいツールになり得たでしょう。また、あの狭い茶室、政治的駆け引きにはうってつけだと思いませんか。もちろん、純粋に茶の湯の文化を継承する場でもあったでしょうが。
現存する当時の建物、銀閣と東求堂(とうぐどう)
東求堂(とうぐどう)
東求堂(とうぐどう)は義おもや政公の持仏堂。一層の入母屋造り、檜皮葺きの現存する最古の四畳半書院。この北面東側の四畳半は「同仁斎」と呼ばれます。
床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるもの、なのだそうです。
観音殿 銀閣
鹿苑寺の舎利殿金閣、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来は観音殿とよばれる。二層からなり、一層の心空殿は書院風。二層の潮音閣は唐様仏殿の様式。創建時の二層の外壁は黒漆におおわれ、軒下には彩色が施されていた。閣上にある青銅の鳳凰が観音菩薩を祀る銀閣を絶えず守り続けている。
いかがでしたか?
銀閣寺を出発点に哲学の道を歩き、法然院、大豊神社、永観堂、南禅寺とめぐる王道コースも、これからの季節特に魅力的です。時代、時空を超えて築き、守り、訪れて来た人々を想いながら、めぐってみては?
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