【比叡山延暦寺】「僧兵」の暴れた歴史も。「日本仏教の母山」

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比叡山 大講堂 京都のお寺・神社 
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比叡山延暦寺

この比叡山、源義経に付き従った、武蔵坊弁慶が僧となったところでもあるのです。今回は「僧兵」に注目した比叡山延暦寺の歴史の紹介です。観光情報も記事最後に載せました。

比叡山延暦寺は、比叡山の山内に点在する約100ほどの堂宇の総称です。山内を、大きく3つに区分し、「東塔」「西塔」「横川(よかわ)」を三塔と呼び、それぞれに本堂があります。

 

ホームページ境内案内図

比叡山 地図

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開山 最澄

「仏教を駆け足でおさらい」のページでも触れていますが、この比叡山延暦寺は、奈良の東大寺のみが権勢を誇っていた時期に、最澄によって開かれ、発展を始めたお寺です。

 

『奈良時代(710年~784年)には、有力な僧侶が政治に介入、財政を圧迫するようになります。そこで、784年桓武天皇は、長岡京に都を移し「政教分離」を図ります。ただし桓武天皇は仏教を信じる気持ちは篤く、純粋な宗教としてよみがえらせようとしました。このとき桓武天皇にみいだされたのが、『最澄』と『空海』でした。』

 

『奈良の仏教に幻滅し、京都の比叡山で修行していた最澄を桓武天皇がみいだし、唐に派遣しました。最澄は天台宗、密教、禅、戒律を学び、帰国。比叡山延暦寺で『天台宗』を開きます。当時、僧の免許は、「戒壇」という機関でのみ交付していましたが「戒壇」は奈良の寺院にしかありませんでした。最澄は延暦寺にも、独自の戒壇を作ることを朝廷に申請。嵯峨天皇によって認められました。

→その後、延暦寺からは、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など「鎌倉新仏教」の開祖が輩出されました。』

年代を照らし合わせると、最澄は788年一乗止観院(後の根本中堂)を創建。本尊として薬師如来を刻みました。804年、桓武天皇の命により、唐へ渡ります。天台宗、密教、禅、戒律を学び、帰国。806年、「天台宗」を開きました。前出の「戒壇」が勅許されたのは、最澄が亡くなった822年6月から一月後のことでした。

最澄が広めた「天台教」は大乗仏教。「すべての人が仏に成れる」というものです。最澄亡き後も、「密教」「浄土教」なども体系化され、教学として振興していきます。

多数の宗派の祖となる僧が、比叡山から現れ、比叡山が「日本仏教の母山」と呼ばれるのも納得できますね。

さあ、ではこの比叡山、あるいは日本の仏教は、常に人々の心の平安を祈ってその後の歴史を紡いだのでしょうか。いえいえ、そうでもありませんでした。

 

「信長の焼き討ち」

日本史の授業で習いましたよね。比叡山は織田信長に焼き討ちにされた歴史でも有名です。人々の安寧だけを祈り、修行に邁進している僧たちを、突然焼き討ちにあわせたのでしょうか?

どうも、そうとも言い切れないようです。

子供の頃、読んだお話しを思い出しましたので、ご紹介します。

昔話の中の史実 「うしわかまる」

『名作アニメ絵本シリーズ56「うしわかまる」(1990年 平田昭吾 永岡書店)』

かわいい絵柄で描かれた絵本を子供の頃に読んでもらった記憶があります。牛若丸(うしわかまる)は、源義経の幼名ですね。少年の牛若丸が、白い装束の上に薄い女物をはおり、手には横笛。橋の上で舞うように描かれた後ろには、長刀を持った弁慶が仁王立ちしている。そんな表紙でした。

この絵本のもとになったエピソードは、「平家物語」です。後の源義経が、僧兵だった武蔵坊弁慶と出会うお話しとして描かれています。

子供の頃は聞き流していましたが、弁慶は僧兵でした。五条の大橋に現れては、橋を通る町人から武具や衣服を奪い、恐れられていた、というのです。

お話では、鞍馬山で天狗に武術を学んだ義経が、弁慶を五条大橋で成敗し、弁慶は改心、義経に付き従うこととなります。僧でありながら、人々の生活を脅かす、その行為は仏門からはほど遠い、ですよね。
さらに言えば、義経も、父親が時の権力者に敗れ、幼さゆえに、仏門に入ることで命を助けられています。それが、鞍馬山で、武術を身に着けていることもおかしいですね。(天狗の仕業になっていますが)その当時の「寺」が武装し、武術を身に着けることが可能な場であったことを、こんな絵本からも読み解くことができるのです。

このお話の時代は、ちょうど義経が活躍しだす、平安時代末期、鎌倉時代への過渡期。この頃から、鎌倉時代、室町時代、戦国時代と豊臣秀吉が刀狩を施行するまで、寺社が武力をもつ時代が続いたのです。

牛若丸と弁慶

「武装する寺、武装する僧」

「寺領、神領」

当時、お寺や神社は領地を所有し、その地の治安を維持し、荘園を経営していました。そして、国府や権門(官位の高い家)、在地領主と紛争を抱え、他勢力への対抗のため、武装していました。これは、京都周辺に限ったことではありません。日本全国に、武装した寺社が存在しました。

平安時代末期には、強大な武力集団となり、特に、奈良の興福寺、東大寺、滋賀の園城寺、比叡山の延暦寺などは寺社同士の勢力争い、朝廷への強訴(ごうそ、徒党を組んで訴えること)を繰り返し行いました。

比叡山延暦寺の僧兵が「日吉大社」の神輿を担いで入洛(京都に入ること)し、要求を通そうとした、という記録もあります。
僧兵は、寡頭(かとう・頭を包む布)高下駄・薙刀(なぎなた)を身に着けていたようです。

先ほどお話を紹介した弁慶にしても、上記の強訴をする僧にしても、街の人々を恐れさせたことでしょう。しかし、神や仏を笠にきられては、下手に訴えることもできません。
訴えるべき朝廷・天皇にとっても、僧兵は手に負えない相手だったようです。

天下の三不如意

白河法皇(1053年~1129年)は天下の三不如意、自分の意のままにならないもの、として『加茂川の水・双六の賽・山法師』と言ったのだそう。山法師は、延暦寺の僧のこと。

これでは、訴えたとしても、朝廷にも如何ともしがたい、といったところでしょうか。

その後も、延暦寺は陰謀や勢力争いと無縁ではありませんでした。いくつかご紹介します。

「僧兵の関わった事件」

1177年、末社のトラブルと京都の火災が元で、後白河法皇と全面対決の様相となり、伊豆への配流を命じられた延暦寺の天台座主・明雲を、大衆(僧兵)が奪還。後白河法皇は比叡山を武力攻撃しようとするが、直前で鹿ケ谷事件(後白河院近臣による平氏打倒の陰謀)が起こり、中断となる。
1324年(鎌倉時代末期)、後醍醐天皇は比叡山に協力を仰ぎ、2度も倒幕計画を立てた。
1434年(室町時代中期)、足利義教(よしのり)との対立。比叡山が、義教を呪詛しているという噂を受け、義教が僧を上洛させ斬首。これに反発した僧たちが、根本中堂に火を放ち焼身自殺。
1536年(室町時代後期)、「宗教問答」の勝敗を巡り、日蓮宗の僧と対立。比叡山の僧兵6万人を動員し、京都にあった日蓮宗の寺をことごとく焼き払う。

大変な暴れようですね。これでは、街の人々の心の拠り所、とはなりえないでしょうね。大きな事案だけでも、いくつも出てくるのですから、弁慶のように寺社の権威を利用した略奪も何度も行われたのでしょう。

『信長の焼き討ち・その理由』

信長が延暦寺を焼き討ちにしたのは、1571年9月12日。

「比叡山自体のの勢力を削ぐため」
「信長の敵、浅井・朝倉連合軍を助けたため」
「京都を狙うなら比叡山の立地が良く、押さえておくため」

パッと史実をおさらいすると、上記のような理由が上がります。

僧兵のエピソードを知ると、信長が比叡山を野放しにできなかった理由として、僧や寺に対し、それまでのような強訴による利権獲得や横暴を、自分の治世下では許さない、と大々的にアピールしたかったのではないか、と推測できます。比叡山は全国の寺社にとっても大きな存在ですから、大きなアピールとなるでしょう。

さて、この焼き討ちの後、延暦寺は所領を奪われます。

再び山門再興を許されたのは1584年、「僧兵を置かない」ことを条件として、でした。

1585年、豊臣秀吉による刀狩で、全国的にも寺社の武力が抑えられていったようです。

いかがでしたか?日本の宗教の歴史も他国に負けず劣らず、派手だったようですね。
仏陀が志した教え、桓武天皇が後押しし、最澄や空海が実践したかった教え、それらの継承とは別の、荒っぽい利権獲得の歴史も持っていたようです。

比叡山延暦寺 情報

もちろん、長い歴史の中、人々の祈りの場として、崇敬を集めてきた比叡山。

純粋に修行し、祈る場として、人々の心の拠り所としての歴史も連綿と続いています。

比叡山のホームページをみると、修行の過酷さも、書かれています。

天台宗は法華一乗の思想ですべての仏教を包含しているので、その修行の種類は多様です。
天台の教えに基づく止観をはじめ、伝教大師の心を受け継ぐ十二年籠山行、密教の修法、峰々を巡る回峰行、阿弥陀仏を念ずる常行三昧など、仏教の様々な修行が行なわれています。

 

今回、歴史を紹介した延暦寺の情報も載せておきます。

比叡山延暦寺ホームページ

 

現在の根本中堂は1642年竣工のもの。建物は、国宝、廻廊は国重要文化財に指定されています。

2020年8月、訪れた際の写真を載せます。

根本中堂は改装中。平成28年から、10年間、とのこと。現在はこのような外観。

ウィキペディアの根本中堂 構造 抜粋

総欅造。桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、軒高約9.78m、棟高24.46m、屋根は一重、入母屋造。

南側に庭が配置される寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台がある。堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3mも低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所であることから別名「修業の谷間」といわれる。内陣の本尊・不滅の法灯と中陣の参詣者の高さが同じという珍しい構造になっており、これを天台造または中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特色を示している。

 

建物の中の見学は可能です。仏像は祈る場から、少し見下ろすような位置(内陣)に、鎮座しています。ご本尊は薬師如来。ご本尊の前には千二百年間灯り続ける「不滅の法灯」も安置されています。
モクモクとたかれるお線香や法灯の靄のなか、ゆったり落ち着いた気分でお参りさせていただきました。

大講堂

延暦寺 大講堂

文殊桜

延暦寺 文殊桜

 

大黒堂

延暦寺 大黒堂

 

比叡山秋のイベント(令和3年)

比叡山ホームページ

秋のイベント(比叡山ホームページ)

「最澄と比叡山」

令和3年9月12日(日)~12月12日(日)(9月25日・26日は拝観停止)

最澄が世を去って1200年の記念として、東塔エリアの「戒壇院」「法華総持院東塔」の特別拝観が開催されます。

「戦国と比叡山」国宝殿特別展

令和3年10月1日(金)~12月5日(日)

東塔エリアの国宝殿での特別展です。

織田信長による比叡山焼き討ちから450年を経たことを機に、日本の歴史・文化において重要な転換期である「戦国時代」の文化に焦点を当てた特別展示。 戦乱の世から復興まで、延暦寺がどのように日本文化を育み伝えてきたのか、延暦寺に残された寺宝や復興に尽力した天海僧正ゆかりの宝物などの展示を通してその足跡を知ることができる貴重な機会です。

「もみじ祭り」10月30日(土)~11月23日(火)

横川エリアで開催されます。

秋には、三内各所でイベントが行われます。山内はとても広いです。どのエリアで開催しているイベントか、しっかりご確認のうえ、訪れてみては?

秋のイベント(比叡山ホームページ)

 

 

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