【勝竜寺城】ガラシャが嫁いだお城

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勝竜寺城

天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。

山崎の戦いで敗走した光秀は、勝龍寺城に帰城するも、敵である羽柴秀吉軍の追撃を受け城を放棄、勝龍寺城から本来の拠点である近江国坂本城へ逃走する途中で死去。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。

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勝竜寺城 碑

勝竜寺城 説明

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明智 玉(珠)

永禄6年(1563年)、越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる。

天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。

天正6年8月、勝竜寺城に輿入れした(『細川家記』)。

天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。

勝竜寺城で2年を過ごした後、天正8年8月、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る。天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視した。この年に興秋が生まれている。
それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。

父が起こした「本能寺の変」

天正10年(1582年)6月、父の光秀が本能寺の変で織田信長を討ち、その後の山崎の戦い後に没したため、「謀叛人の娘」となる。
忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の三戸野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。

 

ガラシャとキリスト教

九州から帰還した忠興は「5人の側室を持つ」と言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。
ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に告白した。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。1587年受洗しガラシャと名乗る。

 

ガラシャ最期のとき

慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。

この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。
その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。『細川家記』の編著者は、彼女が詠んだ辞世として
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」と記している。

とり急ぎ、情報ばかりの紹介のページを作りましたが、ガラシャにまつわる本も、読みましたらレビューしていきますね。

戦国時代の女性は、歴史に翻弄され、きっと生き抜くことは困難に満ちていたでしょう。しかし、きちんと自分の意思をもち、信念を貫きとおしたガラシャの姿がかいま見えます。

勝竜寺城は京都府長岡京市にあります。

市役所 勝竜寺城の紹介ページ

 

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