【花街島原、輪違屋、角屋】新選組との関わりも深い花街

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島原 大門 京都の史跡・城跡
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新選組にまつわるエピソードは、現代でも大きな魅力をもって、様々な作品に昇華されています。皆さま、それぞれ自身の中に彼らの姿を思い描いているでしょう。私が、最初に新選組の登場する作品で夢中になったのは浅田次郎著「輪違屋糸里」でした。この小説の舞台は京都の壬生、そして島原。

「輪違屋糸里」上・下 浅田次郎著 文芸春秋 2007年

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輪違屋糸里にみる島原の光景

冒頭、この物語の主人公である、糸里の幼少期の描写の後、舞台は島原の輪違屋、そこから揚屋である角屋へと移ります。時は文久三年(1863年)。幕末の歴史にご興味がある方には、すぐお分かりですね。
ペリーが浦賀に来航してから10年、徳川家茂が14代将軍となって5年、安政の大獄、桜田門外の変、高杉晋作のイギリス公使館襲撃などを経て、新選組が結成された年です。そんな、激動の時代は、島原にも色濃く影を落としたでしょう。
著者の浅田次郎の描写で、その年の島原の光景を思い描いてみることができます。

「盆中から明月の前後まで、島原の店々には工夫を凝らした錺灯篭が並ぶ。物騒な世情など知らぬげに、今年の灯篭はどの店もいつにも増して華やかだった。宝船やら竜宮城やら、さまざまの趣向にからくりまで仕込んだ紙細工の灯篭には、色も鮮やかな薄絹や羅紗の紐が結びつけられ、たそがれの風になびいている。
糸里は窓辺に膝立って、輪違屋の門口を錺る灯篭を覗き込んだ。腹の中に灯を飲み込んだ猪が、牙をむいている。昼日中には可愛らしいばかりだった顔が怖ろしげに見えて、糸里は思わず首をすくめた。
輪違屋は毎年、干支を象った灯篭を錺る。文久三年は猪の年で、猪の錺物は色気がないと妓たちは口を揃えたが、亭主もおかあさんも聞き入れなかった。何でも今年の灯篭は西陣の職人が三月もかけた代物で、お代は七十両もしたそうだ。
そんな大金は拝んだこともないが、元禄の昔から百七十年も続く置屋には、格式にふさわしい錺りがなくてはならないのだろう。」

この描写にあるように、この年にはもう、輪違屋という置屋は170年という歴史を刻んでいたのです。そして、糸里の輪違屋における姉であり、輪違屋の金看板の音羽太夫が、糸里と会話をした後、角屋までの道中に出ます。その描写も少し。

「道中の先達は提灯をさげた引舟が務める。その後に続く禿はふつう二人なのだが、島原一の傾城にふさわしく、音羽の道中には三組六人が付いていた。
十貫目の衣裳をまとった太夫の背には傘持ちの男衆が付き従って、輪違屋の定紋を染め抜いた傘をさしかけている。
音羽はまなざしを遠い一点に据えたまま、あやういほどに体を振り、内八文字に練って歩む。一年を通じて足袋ははかず、栴檀の香木で誂えた三枚歯の高下駄である。裲襠(うちかけ)の片衿を返しているのは、内に着こんだ禁色の赤を見せるためで、その色は禁裏に上がることのできる正五位の格式を表していた。(略)心の字を象った三枚重ねの島原結びの帯を、やや大儀そうに揺すって音羽は歩む。(略)島原の廓内を東西に貫く胴筋には、それぞれ工夫を凝らした灯篭が華やかにかけつらなっていた。上弦の月は雲井にかかって朧である。
声もなく佇んで道中を見守る人垣の間を、音羽太夫は瞬きひとつせず、悠然と歩いた。
胴筋のつき当たりに、ひときわ豪壮な構えでそびえる千本格子の総二階が、角屋徳右衛門の揚屋である。その歴史は古く天正のころ、関白秀吉の公許を得て開かれた、傾城柳町にまで遡るという。現当主の徳右衛門は十代目を算える。」

この文久三年の頃、既におよそ220年(1641年に花街が移された頃から)角屋の建物はこの島原にありました。その移転の前から角屋の歴史は続いているのです。歴史の層が折り重なって、この街の誇りや矜持となっていったのでしょう。

その島原にふさわしい、誇り高い音羽太夫の最期の言葉は、この物語を貫く一本の線となります。

新選組をはじめ、闊歩する帯刀した武士たちへの、花街の人々の目線はどのようなものだったのかも、著者が、紐解いてくれます。

「尊王攘夷をふりかざす西国の侍と、それを取締るために大挙してやってきた会津桑名の藩が、ともに島原で遊ぶようになり、お公家さんも町衆も次第に足が遠のいてしまった。物情騒然たる世の有様を、島原の夜は鏡のように映していた。」

「京の人々は壬生浪士組を「みぶろ」と呼ぶ。それは平安な暮らしの守護者などではなく、誰にとっても「みぶろ」という名の恐怖そのものであった。先頭をのし歩いてくるのは、局長の芹沢鴨である。でっぷりとした体に白地の華やかな羽織をまとい、太縞の羽二重の袴をはいている。その押し出しだけで、路上の侍たちもみな後ずさった。(略)背のうしろには五人ばかりの手下が続く。袖にだんだらの山形を染め抜いた、浅葱色の揃羽織である。
古来、浅葱の裃は切腹の場に臨む死装束で、われらは死を覚悟で務めを果たしているという意味をこめているのであろう。死装束の群は、その凶々しさだけで人々を怖れさせた。」

ご紹介したのは「輪違屋糸里」のさわりの一部です。この小説では、輪違屋の芸妓の糸里を主人公に、京西陣の菱屋で女房のような立場のお梅、その菱屋の出で、金貸しで前川家の嫁になったお勝、壬生浪人士八木家のおまさ、といった女たちが主軸となって、新選組の闇の部分、芹沢鴨の暗殺事件にいたる物語が進んでいきます。

新選組の前身である浪士たちが、壬生の八木家、前川家を屯所とし、島原へ繰り出し遊行していたことは知られています。菱屋には新選組が発注した衣装代の膨大な掛金がありました。
否応もなく関わっていた彼女たちの人生もまた、時代に翻弄されます。

いかにも時代を牽引していたように見えた男たちが、実は時代の風に巻き上げられ、踊らされる木の葉のように混乱を極めていくさまが、女たちの目によって解き明かされます。そして男も女も皆、悲しみに暮れているよう。

そんな彼ら、彼女らに縁の深かった史跡が京都にはいくつも残っています。

今回、訪れたのは、島原。

ここは、新選組が訪れるおよそ200年も前から、この場所で花街として栄え、俳諧や文壇を牽引していました。色をひさぐのではなく、禁裏にも上がれるほどの文化の担い手である、という矜持も培われていました。
その島原に、当時の姿を留めるのは(復元されたものも含め)、東側の大門、輪違屋、そして、角屋です。当寺の規模ではありませんが、吉原住吉神社も再興されています。

島原に残る遺構

大門

1867年(慶応3年)再建

享保17年(1732)に西の大門が設けられた。その後東北角の、大門は、明和3年(1766)に島寛永18年(1641)に開設された島原は、当初掘と塀で囲まれ、東北角の大門のみであったが、原の中央を東西に位置する道筋と呼ばれる道の東端である現在地に付け替えられた。当初の門については詳らかでないが、享保14年(1729)には、冠木門であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門となった。
嘉永7年(1854)の島原東半分の大火では、この大門も焼失した。大火後、簡易な冠木門で再建されたが、慶応3年(1867)には、神社仏閣なみの本格的な高麗門として立て替えられた。
これが現在の大門である。

昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財として登録された。

島原 大門

 

輪違屋(わちがいや)

置屋
太夫や芸妓を派遣する店

ここから、太夫や天神が、お客のもとへ向かったのですね。

輪違屋 

島原住吉神社

島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保17年(1732)祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。その規模は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、広大な境内地を有した。爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。

ところが、明治維新後の廃仏毀釈により一度は廃止をされ、後に今の場所に祀られました。

島原住吉神社

 

角屋(すみや)

角屋は、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。
揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されているところによと、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。
饗宴のための施設ということから、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。
所蔵美術品では、昭和58年(1983)に蕪村筆「紅白梅図屏風」が重要文化財に指定されまた。
また、平成元年(1989)には財団法人角屋保存会が設立され、以来、角屋の重要文化財建造物と美術品等の保存と活用がおこなわれています。
さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。

角屋の建物は揚屋建築の唯一の遺構として、国の重要文化財の指定を受けています。揚屋は今で言う料亭にあたりますが、角屋においては、その座敷、調度、庭のすべてが社寺の書院、客殿と同等のしつらいがなされ、江戸時代、京都において民間最大規模の饗宴の場でありました。
そこでは、単に歌舞音曲の遊宴のみならず、和歌や俳譜などの文芸の席があり文化サロンとしての役割も果たしていました。
また、幕末には、勤皇、佐幕派双方の会合場所となり、維新の旧跡といえます。ただ、乱闘の現場になったことはありません。

角屋 外観

角屋1

角度をつけて、奥の庭がお客の目線に入るよう工夫されているのだそう。

角屋2

入店を止められた隊士が付けた刀傷。

まず先に、裏方であるおくどさん、店側の人間が立ち働いた帳場から。

角屋3

角屋の台所。おくどさん。天井は煙り出しです。

角屋4

 

角屋5

刀は預かって上がるのが決まり。ですが、新選組は従わない者がいたようです。2階「青貝の間」には酔った上で付けられたという刀傷がついた飾り棚があります。

さて、客人が目にする空間に移ります。

角屋6

お客を迎える玄関から見える内庭。どの角度からみても美しい。

角屋 網代の間

網代の間。天井板を網代組にしているところが、名前の由来だそうです。

角屋 松の間1

角屋一の大座敷、松の間。鳳凰と桐の描かれた襖。この松の間は1925年、一部を焼失。しかし、写真の上部の額や、縁側の一枚板は難を逃れたもの。

 

 

角屋 臥龍松の庭臥龍松の庭。このお庭は京都市指定名勝です。奥にはお茶室もあります。

角屋 松の間2

松の間は、新選組の芹沢鴨が、暗殺される直前過ごしていた場所でもあります。この床の間の位置を背にどっかりと座っていたのかもしれません。酒席の後、帰りついた壬生の八木家にて、切られたのだそう。

いかがでしたか?事前に申し込みをすれば、別料金ですが2階を観ることもできます。所蔵されている品々も展示室で観ることができますよ。2階、「緞子の間」「翠簾の間」「扇の間」
「草花の間」「馬の間」「青貝の間」「桧垣の間」とあり、それぞれの部屋にテーマ性があるしつらえです。見える範囲だけでなく、のぞき込んだり、謂れを知ることで分かる工夫や贅が凝らされています。ことに、青貝の間は、異国情緒にもあふれ、露台も見ることができ、素晴らしいお部屋です。島原に行かれる際は、ぜひ申し込まれては?

2階特別公開 ご案内時間(約30分)
午前 10:15
午後 13:15 14:15 15:15
ただし、定員 各回10名。
電話番号 075-351-0024 にて予約受付(午前10時~午後5時)

角屋もてなしの文化美術館ホームページ

 

 

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