【鎌倉殿の13人】爺さまの呪い?!【富士の巻狩り・曽我兄弟の仇討ち】

曽我兄弟 岡崎義実 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

 

さあ、頼朝は上れるだけ上っていきます。天が味方しているかのような強運。確かに、上総広常が惚れ込み、梶原景時が賭けにでるだけの価値ある天運です。加えて、彼には源氏の頭領たる並々ならぬプライドと、計算高く冷徹な政治力もありました。

しかし、冷徹な判断によって処断された者も多くいます。恐怖によって押さえつけられたために、鬱屈したまま着いてきた者もいたでしょう。

そう、頼朝は、成功を手放しでは喜べないのです。敵はどこに隠れているか、分からないのですから。

ここでは、大河「鎌倉殿の13人」の第23話までの内容に触れています。第23話以降については、史実についてはネタバレがあります。ご注意ください。

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狩りは企ての隠れ蓑

建久4年5月(1193年)頼朝が征夷大将軍に任じられ、その祝いとして、また権力の誇示として行われた富士の巻狩り。そもそも巻狩りとは

巻狩り巻狩(まきがり)とは中世に遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩競(かりくら)の一種である。
鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟である。

とあるように、軍事訓練の意味合いもある、武家らしい、大規模なイベントだったわけです。特に1193年のこの富士の巻狩りでは、多くの御家人たちが一月以上も富士の裾野に滞在したようです。

しかし、武装した御家人が多数集まっていても不自然ではない、このようなイベントは、何かを企てる者にとっても絶好の機会ですよね。

以前、1182年~1183年のころの描写として、大河「鎌倉殿の13人」では、御家人たちが頼家の成長にかこつけた儀式と、狩りを計画し、頼家を人質にし、頼朝に対し意見しようとするという場面も描かれました。狩りは、謀反を企てる者にとって、良い隠れ蓑だったことが分かります。この時は、西国へ行ってまで戦いたくない坂東武者の反乱、というのが隠された企てでした。

頼朝はこれを、いったんは方便で落ち着かせ、上総広常の粛清という強硬な手段と、手柄を挙げた者には土地を与えるという、取引とによって、治めました。企ては失敗し、頼朝が支配者としての地位を固めていましたね。

さあ、「富士の巻狩り」では、誰が、何を、狙っていたのでしょう。

 

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頼家が狩りに成功し、喜ぶ頼朝、冷静な政子

頼朝夫婦は、この巻狩りをどう捉えていたのでしょう。

『吾妻鏡』によると、以下のようにある。5月16日に頼朝の嫡男頼家が初めて鹿を射止めた。頼家の初鹿狩りをことのほか喜んだ頼朝は梶原景高を遣わし北条政子に知らせた。(略)
一方政子は「武士の嫡嗣であり当たり前で珍しいことでもなく、使を出すことでもない」と感心する様子は無かった。

 

頼朝は、軍事訓練の意味合いもあった巻狩りで跡継ぎである頼家が鹿を射とめたことに、今後の安心を得た思いだったのでしょう。これで、次期将軍を、御家人に知らしめることができた、と。しかし、政子は、何ともそっけない対応。これは、どうしてでしょう。

政子が本当にこのような発言をしていたとするなら、何故なのか。鎌倉殿として、また次期将軍として、それぐらいはできて欲しい、という言葉の通りの思いであった可能性ももちろんあります。

しかし、やはり、ここでも北条氏と比企氏との冷ややかな関係が見えるように思います。政子自身が生んだ子ではあっても、頼朝により比企氏へと結びつけられた頼家。なかなか会う機会もなく、どんどん比企氏との関係だけが深まる頼家は、政子にとって他家の子のように見え始めていたのではないでしょうか。すでに、この『吾妻鏡』の1193年5月、富士の巻狩りのころには、そうした親子の断裂が起こっていた、ということかもしれません。

『吾妻鏡』、色々と歴史の書き換えは行ったようなのですが、妙に、消し切れていないのが、この頼家周りの記述なのです。史実をできるだけ正しく記したいが、北条氏や利害のある者たちの記述は忖度を加えたために、情報の取捨選択に限界があった、といったところでしょうか。

政子の発言は実際にあり、この情報は消さずとも支障はない、と判断されたのでは、と個人的には推測します。

さて、政子の対応は突き放したものでしたが、頼朝は、どうやらこの「富士の巻狩り」大いに楽しんでいる様子です。自身の権勢を知らしめ、嫡男のお披露目もかなったのですから、目的は達成されたのでしょう。

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曽我兄弟って、誰?

さて、話しを戻します。このお祭りムードの富士の巻狩りで、仇討ち事件を起こした、曽我兄弟。いったい誰なのでしょう。
以前、伊東祐親、工藤祐経を紹介した記事にちらっと名を記しています。

伊東祐親 家系図

クリックで拡大。伊東祐親の血縁の人物は、赤字にしています。

彼らは、伊東祐親の嫡男・河津裕泰(かわずすけやす)の子。曽我祐成・時致(すけなり・ときむね)。爺さま、祐親の孫に当たります。

そして、彼らの父、河津裕泰は、爺さま・祐親を討とうとした工藤祐経によって討たれています。なぜ、工藤が爺さま・祐親を討とうとしたのかは、以前の記事に詳しく書きましたのでそちらをご覧ください。

【鎌倉殿の13人】‟爺さま”って誰?‟工藤”って誰?家系図で分かる!【伊東祐親・工藤祐経】

工藤祐経による爺さま・祐親の襲撃は、まだ頼朝が流人であった頃。

伊東祐親・工藤祐経

 

大河「鎌倉殿の13人」では、頼朝が工藤祐経に「祐親を殺せ」と指示。祐経は、襲撃事件を起こしています。頼朝による指示があったのかは、確証はありませんが襲撃は史実のようです。

この、工藤祐経による、爺さま・祐親の襲撃事件で、爺さま・祐親は無事でした。しかし、曽我祐成・時致の父、河津祐泰は亡くなります。

これが、曽我祐成・時致が、工藤を父の仇とねらう原因になったのですね。

爺さま、後の世に様々な軋轢を生んでしまいました。まあ、爺さまは、工藤が憎かったのでしょうし、頼朝による支配など嫌だったでしょうから、仇討ち事件も、その後の頼朝襲撃も望むところ、だったかもしれません。

なんなら、孫にそうさせたのは、爺さまの怨霊かもしれませんね。

 

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本当の目的は、仇討ち事件に乗じた頼朝暗殺?

『吾妻鑑』では、この一件、こう書かれています。

『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。(略)曾我兄弟と頼朝の御家人の間で戦闘が始まり、(略)十郎(兄、祐成)は新田四郎忠常と対峙した際に討たれた。
五郎(弟、時致)は将軍頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが(略)(時致は)取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。(略)

さて、この仇討ちの際、工藤祐経は討たれました。ここで注目したいのが、弟時致の行動。頼朝をめがけて走った、つまり、頼朝を討とうとしているのです。

頼朝を討つことはかなわず、時致は尋問の後、処刑されました。しかし、頼朝の対応は、仇討ちの事情を知り、感涙した、などと書かれます。

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何故、曽我兄弟が頼朝を襲ったか

時政が黒幕?!

なぜ、曽我兄弟が頼朝をねらったのでしょうか。曽我兄弟が、大河「鎌倉殿の13人」の描写したように、河津裕康の死の背景に頼朝の祐親殺害の指示があり、兄弟がそれを知っていたとする説や、本当の黒幕は頼朝を殺害しようとした北条時政である、など諸説あるようです。

北条時政は、この巻狩りの準備を担当し、曽我兄弟にとっては烏帽子親。黒幕説が出てもおかしくないようにみえますね。ただ、このタイミングで、となると、不自然でもあります。さらに、2人の少年だけを使って、多数の御家人をいなしながら頼朝暗殺にこぎつける、というのは、時政ほど武力や政治力のある人物がとる手段にもみえません。

兄弟が、頼朝までもが親の仇である、と認識していたとすれば、工藤祐経を討っても戦い続けたことは頷けます。もし、本当に黒幕がいたとすれば、兄弟に「頼朝が、工藤に祐経を殺すよう指示した、だからお前たちの父親は死んだのだ」と吹き込んだ誰か、ということになります。

大河「鎌倉殿の13人」では

大河「鎌倉殿の13人」第22話では、どうやら、岡崎義実(三浦義澄の叔父)を、裏のある人物と描いていましたね。曽我兄弟の育ての親・曽我祐信(相模の武士)が、岡崎義実の幼馴染で、この頼朝襲撃は、岡崎義実と曽我兄弟が発案、北条時政は仇討ちだけを聞かされ協力するとし、比企能員は全てを知って、乗っています。巻狩りを隠れ蓑にした、仇討ちの裏で、さらに頼朝暗殺を計画している、としたわけです。

三谷さん、うまいですね、やはり。坂東武士たちのなかに、反頼朝の者はいたでしょう。つまり、1182年のころの反乱と、本質は同じとしたのです。頼朝の強硬な支配と、使役されている状況とに、不満を持つ者は出ます。それを岡崎義実とし、曽我兄弟を巻き込んだ企てを実行させようとしている、としました。そこに、比企氏の万寿だけを擁立し源氏を形骸化してしまいたい思惑までからんでいる、というのが、三谷さんの描く「富士の巻狩り」です。

しかし、これも、創作として捉えるべき一説。

岡崎義実は、石橋山の戦いで嫡男を失いながら、頼朝をよく助けた忠義の人とされています。比企氏は、ドラマ通りな気もしますが。(私見です)

ドラマ第23話では、義時の采配により、この一件は、頼朝への謀反を装った、曽我兄弟のかたき討ちであったと、逆転の論理に落ち着きました。しかし、比企氏は、馬脚を現していましたね。万寿・頼家の安否も不明のなか、慌てて蒲殿、源範頼を祭り上げようとしていました。

 

頼朝はうすうす、謀反を把握し、鎌倉に戻れば、自分なしでの体制が整えられようとしていました。情報の混乱が、各々の本性をあぶり出します。

史実に、このようにつなげてくるとは。

頼朝は、疑心暗鬼に襲われたでしょう。

 

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上りつめて、見えたのは疑心暗鬼の世界

頼朝は明らかに、富士の巻狩り以降、警戒心が強くなっています。頼朝の安否が分からず、心配する政子に「源氏にはまだ、私がおります」と言ったとされる弟・範頼。この発言さえ、謀反の表れと、頼朝に疑われ失脚したと『吾妻鑑』に記されるのです。しかし、後世の我々から見ると範頼はまたとない、腹心でした。

復讐のための襲撃が、また別の悲劇を生み、その仇討ちで、さらに人が死ぬ。生き残った者は、次に狙われるのは自分なのではと、疑心暗鬼になる。

ますます、祐親の亡霊が怪しく思えてきました。(笑)怨霊の力ではないでしょうが、ものすごい因果の渦が、頼朝の周りにうねっているようではありませんか。

上りつめた先で、頼朝がみたのは、どうやら不穏な世界。誰が味方で、誰が敵なのか、もはや分からなくなる世界だったようです。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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