【鎌倉殿の13人】‟爺さま”って誰?‟工藤”って誰?家系図で分かる!【伊東祐親・工藤祐経】

伊東祐親・工藤祐経 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

「鎌倉殿の13人」始まりましたね。人懐っこい義時パパ、血気盛んな兄・宗時に振り回される義時、頼朝に恋をしてしまっている政子と北条一家がコミカルに描かれる一方、義時の祖父である‟爺さま”(じさま)こと伊東祐親による、頼朝と八重の子・千鶴丸の殺害を匂わせる描写があるなど、振れ幅の大きな第一話でした。

皆さま気になった登場人物はいましたか?私は、もちろん北条ファミリーにも惚れ込んだのですが、‟工藤”と呼ばれていた人物と、‟爺さま”がやはり、気になりました。

こそこそと、みすぼらしい風体で北条の屋敷を訪れ「爺さまが私にした仕打ちを、ご存じですか?」と言った人物。北条の屋敷で‟爺さま”こと祐親に見つかった際には「土地を返してくだされ」と訴え、第一話の終盤では、頼朝に「祐親を殺せ」と命じられていました。

彼がいったいどういった人物なのか、紹介します。

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‟爺さま”こと伊東祐親

義時の祖父 伊東祐親の家系図

伊東祐親 家系図

クリックで拡大。伊東祐親の血縁の人物は、赤字にしています。

工藤、という人物を説明する前に、まず‟爺さま”と呼ばれていた、伊東祐親について、説明します。

伊東祐親は、伊豆国伊東(現・静岡県)の豪族。工藤氏のの6代目であり、伊東氏の祖でもある工藤祐隆の孫です。平家方の豪族の一人。1160年から源頼朝の監視を任されていました。

この、‟爺さま”そのあだ名の通り多くの地元の豪族と、娘や親族が縁組しており、彼の血を引く者が伊豆の豪族には多くいます。当時の縁組は同盟を意味します。土地を守りたい豪族たちにとって権力者である伊東家との縁組は重要でした。

「鎌倉殿の13人」の現在の登場人物で言えば、北条家の兄・宗時、主人公・義時、そして義時の信頼する友の三浦義村。彼らは皆、伊東祐親の孫ということになります。(政子の母については、諸説あるようで‟爺さま”との血縁は不明です)義時が淡い恋心を抱いていた八重は、言うまでもなく祐親の娘。祐親の、血縁の多さがお分かりいただけると思います。正に、皆の‟爺さま”なのです。そして、義時と、盟友三浦義村は従兄弟同士であることも、分かりますね。

‟爺さま”と慕われる描写にも頷けますね。

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伊東祐親の甥、工藤祐経

では、一人、みすぼらしく描かれた工藤とは誰なのでしょう?

なんと、彼もまた、‟爺さま”の親族です。

彼は、祐親の甥にあたる人物。しかし彼の父は養子であったようです。祐親の祖父である工藤祐隆は、工藤祐経の父に土地・伊東荘を与えました。同じく養子ですが祐隆の嫡孫でもある祐親には河津荘が与えられたのです。これを、祐親は不当だと思ったよう。

父が亡くなると、工藤祐経は伊東荘を継ぎます。まだ年若かった祐経。‟爺さま”伊東祐親が祐経の後見になり、‟爺さま”の娘・万劫御前が妻となりました。祐親について、京にも上ったようです。

しかし、‟爺さま”祐親はそのタイミングで、祐経から土地と、妻を取り上げてしまったのです。祐経は身一つ見放された形になってしまいました。

それで、大河ドラマの、あの風貌となったわけですね。

ぼろぼろのなりで登場した祐経ですが、祐親に伴われて上洛した時には平重盛に仕えていました。歌舞音曲に通じていたようです。後の1186年4月、捕らえられ鎌倉の鶴岡八幡宮で舞いを舞うことになる静御前。この時、鼓を打ったのは工藤祐経だったそうです。

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孫さえ殺す、武士という世界

さて、ドラマの終盤、善治による千鶴丸の殺害の描写。これも衝撃的でした。‟爺さま”祐親は流人頼朝と八重の関係に怒り、自分が大番役で留守の間に生まれていた千鶴丸を殺害させているのです。現代の感覚では相当ショッキングです。

甥を陥れ、孫を殺す。‟爺さま”こと伊東祐親は恐ろしい人物ですね。しかし、当時の武士の社会ではこのようなことも、往々にしてあることでした。利害は情より優先されました。

千鶴丸については、その存在自体も『曽我物語』に書かれているだけ。このような事件が史実であるかは分かりません。しかし、親子や兄弟であっても争うことのあった武士の世界。生きていては都合の悪い人間ならば、子供であっても後のために殺してしまう、それは必要なリスク管理だったのです。

現に、平家は清盛が情をかけ、生き延びさせた頼朝や義経に、戦いを挑まれることになっていきますよね。

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第二話へ

さて、ドラマでは頼朝が指示したことになっている、工藤祐経の‟爺さま”祐親襲撃。次回、描かれるでしょうか。第一話終盤で三谷さんが、頼朝の指示があったとする説を採用していたこと、頼朝の怒りの表現として胸に迫りました。

頼朝の指示があったかどうかは、歴史家の中でも見解が分かれるよう。

頼朝は、我が子・千鶴丸を殺されているので指示する動機としては頷けますよね。

工藤の襲撃が、また『曽我兄弟の仇討ち事件』へとつながっていくのですが、それはまた日を改めて書きたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

神戸フランツのチョコが楽しい

 

【伊藤久右衛門】

 

 

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