【鎌倉殿の13人】全てが計算?!冷徹なカリスマ、初代”鎌倉殿”【源頼朝】

源頼朝 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

三谷幸喜さんの手掛ける「鎌倉殿の13人」。登場人物は、それぞれ強烈な個性の持ち主ですね。平安時代を終わらせ、鎌倉時代に突入するその時、彼らはどんな思惑で動いていたのか。今回は、その始まりの『鎌倉殿』、大泉洋さん演じる源頼朝について、ご紹介します。

基本情報

1192年鎌倉幕府を開いた。
「御恩と奉公」将軍と御家人との主従関係を、相互に義務を負う、契約的なものとし、定着させる。
「守護・地頭」を置いた→次第に朝廷から政治の実権を奪う。
武家政権の創始者 武家政権を築き、武家政権を代表する地位が征夷大将軍である、という慣習、将軍の他と隔絶した地位を習慣化した。
武家政権は、以降、680年間続く。
実績は『吾妻鏡』に詳しく記される。
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頼朝と京都 頼朝の”冷徹な人格”を育んだ?

頼朝にっとっての京都とは、どの様な場所だったのでしょうか。彼は、少年期、宮廷に出仕しています。頼朝の祖先は清和天皇。頼朝はその系譜をひく河内源氏の人です。父は源義朝。
頼朝の母、由良御前も藤原氏の出で、高い身分の人でした。

母親の身分が高かったこともあり、頼朝は義朝の嫡男として扱われたようで、官位も与えられていました。

父・義朝 京都における成功と挫折

頼朝の父義朝は同族の内紛で一度都の地位を失っています。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし再び都に戻って地位を得ます。東国を基盤にもつ、源氏の棟梁。それが、頼朝の父義朝でした。(これに対し、西国を基盤に台頭してきた武家が平氏ですね)

戻った宮廷で起こった「保元の乱」では後白河天皇方として平清盛と共に戦い、戦功を挙げていますが、この戦いは、河内源氏が親子、兄弟を分けて争われました。戦後処理では義朝は父と弟を自らの手で処断させられています。義朝は「保元の乱」の戦功により地位を上げましたが、その後の「平治の乱」で敗走、死亡。この時は平清盛に追われる側でした。
子の頼朝はこの時14歳。捕らえられ、結果伊豆へ配流されたのです。
どうやら、この父親の生涯のあり方が、頼朝の生きかたに深く影響しているように思えます。

父親と共に出仕した朝廷では、天皇家を含む諸氏が兄弟であれ親子であれ、策を廻らし陥れ、陰謀渦巻く渦中にいたのです。他の兄弟たちが見なかった世界を、頼朝は見たことになります。かつての父親と同じように、都を追われた頼朝。しかし流された伊豆は、父が築いた勢力のほど近くでした。

 

宮廷や父の生涯から得た教訓

朝廷におもねる、従属することなく、独立した権勢を持つ方がよい。しかし、朝廷の全国に対する影響力や天皇の権威は大いに利用すべきである。
朝廷では血筋の良さだけでなく武力を溜めたものの地位は強く、影響力をもつ。朝廷は時の強者には逆らえない。
仕える相手を見誤ることは、身の破滅である。情報に通じていることは、何より重要である。
親族であっても、自分を脅かす存在を野放しにはできない。やがて自分の首を狙うかもしれない。
政敵の子息に情をかけてはならない。自分のように虎視眈々と報復を狙うかもしれない。
このようなことを、父や自身に起こった事象から考えたのかもしれません。それだけ過酷な経験をした、ともいえるでしょう。

その上で、源平合戦の後の頼朝の朝廷への対応は、父親とは違うものとなりました。父親と同じ轍は踏まなかったのです。

飴と鞭を使い分け、姿を見せず支配者となる

頼朝は、戦に際しても、戦場に赴いて采配を振るうことは、あまりしていません。適材適所に、味方の御家人・同族・親戚・兄弟を配置、トップダウンで指示を出す、という戦い方をしました。御家人や親戚、兄弟には、完全な忠誠を求め、自身は軽々しく姿は現しませんでした。しかし、御家人らの行動や人となりは鋭くみており、一人一人の特性もよく見抜いていました。さらに「お前だけが頼りだ」と御家人を個別に呼んで関係を深める、飴と鞭の”飴”の対応も行いました。

これは、彼のカリスマ性、絶対的な君主であるというイメージを御家人たちに印象付けます。

京都に対しても、遠隔からの政治交渉で、朝廷を翻弄しました。

同族とはいえ、独自の思惑をで動いていた木曽義仲。義高という人質をとってはいましたが、ライバルとも言える義仲が先に平氏を破り、入京。しかし、後白河法皇に交渉した頼朝は、平氏追討の一の功労者は自分であると認めさせます。

その後も弟範頼、義経らを京に向かわせ、義仲を追い落とし、義経の謀反を疑えば、義父の北条時政を主な交渉役にたて、日和見的な朝廷に圧をかけ続けます。

1180年に兵を挙げてから、自身が入京するまでには10年の月日がありました。

朝廷に対してさえ、なかなか姿を現さなかった頼朝。東国平定のためでもあったこの行動は却って功を奏しました。姿を現さない実力者が、人を介して朝廷の一挙手一投足に快、不快を伝えてくるのです。
後白河法皇も、頼朝の意向を案じおろおろと、対応に悩んだ記述もあります。もはや朝廷の中核も頼朝の機嫌を取り結ぼうとしているのです。

かつて、父親は朝廷に評価されに、京に戻ったかもしれません。しかし、頼朝は、朝廷でさえ、対等か、それ以上の位置付けとして、交渉の相手となることに成功したのです。
父の義朝との大きな相違点でした。

満を持しての入京

1190年11月。いざ、源平合戦後に初めて入京した頼朝は、40日間の長さで在京。かつて父を介して出会っていた後白河法皇との対面は8回に及びました。飴と鞭の”飴”ですね。後白河法皇は頼朝に複数の高い官位を与えました。(在京をし続けるつもりが無かったためか、頼朝は辞退)

義経追討が名目であった「守護・地頭」についても、この在京中に頼朝の諸国守護権は公式に認められ、地頭は治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わりました。

1195年、源平合戦後、二度目の入京は妻政子や嫡男頼家、娘大姫を伴いました。この際は大姫の入内を画策、丹後の局らに接触したようです。

日本で唯一、政権があった京都。陰謀渦巻く朝廷は、幼少期の頼朝の人格形成にも大きな影響を与えたでしょう。
しかし、最終的に頼朝はその求心力だけを利用し、事実上の支配権を京都から引き離した、最初の武家となったのです。

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冷徹なほど合理的なリーダー、源頼朝

頼朝が、源平合戦を勝利に導いた弟、義経を後に追討したことは、有名です。頼朝が、義経を嫌った理由については、別の記事で紹介しています。

【鎌倉殿の13人】なぜ、頼朝に嫌われたのか【”無邪気なサイコパス”義経】

さて、頼朝は義経一人を追討し、満足したわけではありません。静御前の産んだ男子を殺すなど冷徹な一面もみせます。河越重頼の娘が義経に嫁いでいたために、河越重頼は誅殺されました。そして、義経を匿った、奥州藤原氏。秀衡亡きあと、朝廷まで動かす頼朝に屈し、泰衡は義経を討ち、首を鎌倉に送ることとなりました。

しかし、頼朝は奥州討伐を実行します。

利用された義経

いざ潰すなら、どのようにつぶそうか。そう考え始めた頼朝にとって、義経はまたとないコマでした。

この義経追討の流れを見ると、ただただ、頼朝に都合のいいように、物事が動いているようにも見えるのです。

第一に、朝廷を介さない統治をしていくために、「守護・地頭」という自分の直轄の権力を全国にしくことに成功しました。
『義経を始め平家の残党や木曽義仲の残党を倒して治安をよくするよ。→義経は捕まったけど、全国の警備はこのままやっていくよ。』
第二に、全国支配に邪魔な奥州藤原氏を、排除することに成功しています。
『義経を討たないとつぶすよ。→義経の首は届いたけど、奥州藤原氏は全国支配に邪魔だな。義経を匿っていたことが反逆罪だよね。やっぱりつぶすよ。』

こんな本音と目算が見えてきませんか?
義経追討は、鎌倉幕府の政治基盤を固め、頼朝に権力を一元化するために利用されたのです。

これを意識的にやっていたのが、源頼朝という人だとすれば。うすら寒いほどの、実利主義、合理主義者です。

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南関東の武士団による”神輿”だった一面も

富士川の合戦の直後に上洛を急ぐ頼朝を東国に引き止めたのは三浦義澄・千葉常胤・上総広常などの宿老であり、奥州攻めでも、「軍中、将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」と進言したのは、大庭景義でした。「守護・地頭」の設置を初めに進言したのは、大江広元です。

鎌倉幕府は一面では頼朝によって興された政権でしたが、他面では武士団の家の集合体でもありました。主従関係はきっちり示されましたが、頼朝も彼らの意見なしに突き進むわけにはいきませんでしたし、それが朝廷に対する、幕府の独立志向を後押ししました。

頼朝自身は親朝廷路線であって、家臣団により、幕府樹立がかなった、とみる向きもあります。様々な解釈ができるのですね。

いずれにしても、頼朝によって始まった武家政権というシステムは源氏の系統が途絶えても、以降680年にわたって続きます。

今回はここまで。また、頼朝の女性や家族についてのエピソード、「鎌倉殿の13人」に関する記事も書いていきます。良ければ見に来てください!最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献 「鎌倉北条氏河氏の興亡」奥富敬之著 吉川弘文館

「日本の時代史8 京・鎌倉の王権」五味文彦著 吉川弘文館

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