【鎌倉殿の13人】将軍職を”継いだ”女性【北条政子】

北条政子 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

尼将軍と呼ばれ、軍や政治をも動かした、北条政子。彼女も『鎌倉殿の13人』の中で最重要人物の一人となりそうです。

大河ドラマでは、15話、16話の頃には頼朝の妻となり、所作や勉学に励み、実力を蓄えていました。専制君主として、坂東の武士を束ね始めた頼朝と、坂東の武士たちの間を取り持つなど、自分の役割を見つけ出し、次第に重い立場を得ていきますね。

そんな彼女の人となりが分かるエピソードを紹介します。嫉妬による愛人宅の打ちこわしなど、怖いイメージの彼女。しかし、一途な想いを抱えた女性に優しかった一面もあるんですよ。義高と大姫、義経と別れなければならなかった静御前に対し、優しく寄り添いました。

 

北条政子(1157年~1225年)

源頼朝の妻、父は北条時政
子は頼家実朝大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。

 

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一途な恋を貫く女性に優しかった、政子

政子と言えば、嫉妬による事件で有名です。頼家を妊娠中、頼朝亀の前を寵愛していることを知り、亀の前のいる屋敷を襲わせる、何とも過激な事件を起こしました。当時は公家や武家の男性が、複数の女性と関係するのはよくあることだったはずですので、政子の激しい嫉妬は目を引きます。これ以降も、頼朝の子を産んだ女性の追放などもあり、その嫉妬が一時的なものではなかったことがうかがえます。

頼朝への一途な想いを隠すことのなかった政子。だから、でしょうか。政子は、一途な思いを貫く女性には、優しく接するエピソードも、もっています。

大姫のための怒り

大姫

長女、大姫が6歳のとき、木曽義仲の嫡子、義高が11歳で、大姫の婿として鎌倉へ来ます。実質は木曽義仲の人質ですが、大姫は彼を慕ったようです。

1184年、頼朝は弟の源範頼義経を派遣して義仲を滅ぼします。
頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決め、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させます。
激怒した頼朝の命により義高は斬られました。大姫は悲嘆の余り病の床につきます。政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、頼朝はやむなく義高を切った家人を晒し首にしています。その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となりました。政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣しましたが、大姫が立ち直ることはありませんでした。

静御前への同情

静御前

1186年、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られました。政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得します。度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で

「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」
「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」

と義経を慕う歌を詠いました。これに頼朝は激怒しますが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなします。
政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えました。

政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めています。静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じました。静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願いますが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄されました。政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えました。

上記のエピソードは共に『吾妻鏡』に書かれているもの。利害が相反する相手は殺し、敗れた者の息子を殺してしまう、という武士の世界。しかし、頼朝自身が平氏に情けをかけられ生き残り、平氏を滅ぼすという実績を持つだけに、武士の世の悲しい定めでしょう。しかし、そこには悲しむ人がおり、その気持ちに寄り添おうとした、人間としての政子が描かれています。

 

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政治的見解をもち、軍も動かせた「尼将軍」

鎌倉時代、女性たちの地位や力は向上していた、といわれます。それは、財産を持ち、管理するという立場に女性も就いていたためでした。どうやら、人口の割合も、男性より女性が多かったことが関係するよう。

しかし、彼女ほど、男勝りに活躍し、武力まで動かせた人は珍しいでしょう。平安時代末期から鎌倉時代、まだまだ女性は父親や、実家の所有物であり、上流家庭であればあるほど、政略結婚のコマでした。

ところが政子は、自身の結婚もだいぶ自由意志で勝ち取ったようです。もちろん、時期が良かったため、ではありました。

そして頼朝の死後、彼女の活躍が目立つようになります。

北条氏にとって邪魔であった比企氏の族滅は、父・時政が策を廻らせ、政子の命を受けた幕府軍によってなされました。

父親と、その後妻による謀反「牧の方事件」では、弟義時と共に政子自身も兵を発し、事件を終結させています。

三代将軍実朝の就任に際しては幕政に参画。実朝の後継者についても交渉を行い、四代将軍の代理も政子が行いました。

これほどの実権を持つことは、男性であってもよほどの才覚がなければ出来ないでしょう。素晴らしい才能を、政子はもっていたようです。

政子の政治的見解

頼朝亡き後の政子は、むしろ表に出て、求心力を発揮します。住んだのも頼朝が住んだ「大御所」でした。

鎌倉幕府は、東国武士団の団結がなければ、成り立ちません。各武士団、各家また文官と武士たちなど、争いの火種や独立の怖れを抑えていられたのは、カリスマ的な専制を布いた頼朝あってのことでした。それが、頼朝の死により直ちに瓦解しなかったのは、二代将軍頼家ではなく、鎌倉殿の後家・政子の力によるようです。

夫が死んで尼となることで、むしろ「女性だから」という制約が外れた政子。尼将軍として、鎌倉殿の後家として、弁舌をふるい、頼朝がまとめた東国武士たちを鼓舞、二代目、三代目の鎌倉殿にできなっかった、東国武士の精神的支柱の役目を果たしました。そして「東国が自立的であるべき」という見解を、政子ははっきり持っていたのです。
それは、亡き頼朝のためだったのか、実家北条氏のためだったのか、あるいはその両方であったのかもしれません。

せっかく頼朝がもぎ取った、東国武士の政権を潰されるわけにはいかなかったのです。本当に、男勝りの気概です。

 

大演説

1221年承久の乱に際しての演説は有名です。

まず、前提としてこの頃の情勢と政子の立場を説明します。

情勢は、三代将軍実朝の死で混乱していました。
京都の後鳥羽上皇は、親朝廷派であった実朝の死で、幕府を掌握していく算段が崩れ、皇子の将軍職への下向をしぶります。この時、政子の弟で執権の義時は皇子の下向を重ねて交渉、しかし拒否されるなど軋轢が生まれていました。

結局、将軍職の座には、皇子ではなく摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることになりました。三寅はまだ2歳の幼児であり、三寅を後見した政子が将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになったのです。この時政子、62歳。
『吾妻鏡』では1219年の実朝死去から1225年の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っています。

そして、ついに、後鳥羽上皇から義時追討の院宣が出され、承久の乱へとなだれこんだのです。鎌倉幕府の執権が朝敵となり、御家人たちに動揺が広がりました。まだまだ朝廷の権威は絶大だったのです。そこで、あの有名な政子の大演説がなされました。

『承久記』では政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行ったとし、『吾妻鏡』では安達景盛が演説文を代読しています。

従二位の北条政子は、家人たちを簾の下に招いて、安達景盛に示し含めて言うことに、
「皆心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最期の言葉です。故右大将軍(源頼朝公)が朝敵(平氏)を征服し、関東(鎌倉幕府)を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いのです。恩に報いようという志が浅くはありませんか。しかるに今回、逆臣の讒言によって、道義に反した綸旨(天子の命令)が下されました。名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義らを打ち取り、三代将軍の眠る、この鎌倉の地を守りなさい。ただし上皇のもとに参ろうとする者は、ただ今申し出るとよい」
その場に集まっていた武士たちはことごとく命に応じ、かつ涙に溺れ、返事もはっきりと言葉にならない。ただ命を懸けて恩に報いることを思うのだった。

『吾妻鏡』現代語訳

軍議にも、政子は参加しました。

軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、御家人に動員令が下る。
またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。

後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。
後鳥羽上皇義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。政子義時とともに戦後処理にあたった。(ウィキペディアより)

 

将軍の器をもつ者の不在と政子

頼朝が健在であった頃、政子が望んでいた将来の将軍は、実子である頼家実朝だったでしょう。鎌倉幕府は自分と頼朝の子が将軍となり、実家北条氏が支える形を望んだのだと思います。
しかし、二代将軍頼家比企氏など自身に近い武士に肩入れ、他の家臣団との軋轢を生むばかり。子の頼家が父、時政に追い落とされるのを、政子は黙認しました。三代将軍実朝は、朝廷を尊敬するあまり、やはり東国武士の代表としては弱すぎました。

政子としては、子供たちに頼朝を継ぐ、強いリーダーとしての姿を望んだのではないでしょうか。

頼家にまつわる、こんなエピソードがあります。

建久4年(1193年)、頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。

このエピソード、政子が息子に、将軍として皆を牽引する強い武士としての資質を求めていたことを現しているように思います。

辛くもその資質は、子供たちではなく、政子の方が強く持ち合わせてしまったようです。『吾妻鏡』で1219年の実朝死去から1225年の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱ったことからも、実質的な幕府の長は、政子だったことが伺えます。

共に戦い抜いた弟、北条義時の死後、政子は、幕府の執権職を義時の子、泰時が継げるよう動いてもいたようです。1225年、66歳で亡くなりました。

朝廷の情勢も、東国武士たちの思惑や勢力図も把握し、わが子の将軍としての資質も冷静に見極めた、北条政子。彼女はまさに”将軍の器”をもった女性でした。

 

いかがでしたでしょうか。男勝りに、軍や政治を動かした政子。しかし、頼朝への一途な思慕を隠すことなく、一途な女性に優しかった一面ももっていました。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが、政子を演じます。三谷幸喜さんの描く政子、とても楽しみですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献 「鎌倉北条氏河氏の興亡」奥富敬之著 吉川弘文館

「日本の時代史8 京・鎌倉の王権」五味文彦著 吉川弘文館

 

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