【鎌倉殿の13人】義経がまず、向かった先は【宇治川の戦い】

義経 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

飢饉や、鎌倉内での政争で、なかなか動くことのできなかった、1181年頃から1183年。その間に、頼朝より早く、都へ攻め上ったのは木曾義仲でした。頼朝は焦ったでしょう。しかし、義仲は京で狼藉をはたらき、後白河法皇に嫌われます。義仲は、政治や交渉がめっぽう下手でした。

これが、頼朝に好機をもたらします。そして、動きたくてうずうずしていたであろう義経にとっても、待ちに待った、”戦い”のときです。

大河ドラマでは、待つのも限界、範頼が来る前に、木手曽義仲と小競り合いを起こしていましたね。ここでは「宇治川の戦い」での義経の動きを紹介します。

 

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宇治川の戦い 義経がまず向かったのは

宇治川の戦い、経過

1184年1月20日、ついに源義経・範頼が動きます。電撃的な作戦は、決行されました。源氏軍は、福原から様子を伺う平家と衝突せず、京の街中をなるべく戦禍に巻き込まず、また木曽義仲が後白河法皇を連れ、北陸へ逃れる前に、討たなければなりません。

源頼家義経軍は二手に分かれ、範頼は、近江国瀬多(瀬田)から、義経は宇治から、京へ向かいました。

義仲は今井兼平を瀬多へ、志太義広を宇治に派遣。またこの時には再び義仲と対立していた源行家のいる河内国長野へ樋口兼光を派遣しました。

図はクリックで拡大できます。

宇治川の戦い、木曾最期、経過図

 

『玉葉』によれば、まず義経が宇治川を突破し、大和大路から入洛。

義仲は、六条殿にいた後白河法皇の身柄を確保できず、六条河原で戦ったあと、粟田口から山科、勢多へ向かいますが、粟津で追撃してきた義経軍の石田為久に討ち取られました。

このときの「宇治川の戦い」から、木曽義仲が討たれる「木曾最期」までは、ほぼ一日の内に起こったようです。『平家物語』はこの短い時間での出来事も、かなりの長さで描写しました。

巻第九「宇治川先陣」では、頼朝から”いけずき”という名馬を賜った、佐々木秀義の四男、佐々木四郎高綱と、やはり名馬ではあるが一段下の”する墨”を賜った梶原景時の長男、梶原源太景季のどちらが先に川を渡るか、先を競う、先陣争いが描かれました。高綱は景季に、腹帯を締め直せと、とっさの機転で話しかけ、出し抜いています。また、畠山重忠は、自分につかまって、川を渡った烏帽子を岸に投げ上げた、と描写され、かなりの大力であったようです。

義仲側からの描写は六条河原での「河原合戦」、また、巴御前と義仲の別れも描かれた「木曾最期」などにあり、義仲の主従の情や武功へかける思いが、活き活きと描写されています。

義経は六条殿の後白河法皇の元へ

さて、そんな中、御家人たちにうまく戦いをさせながら、義経が真っ先に目指したのは、後白河法皇のいる六条殿の御所でした。

『平家物語』によると「宇治川の合戦」が行われたその日、六条殿では、後白河法皇の側近たちが木曽義仲が来るのでは、と慌てふためいていました。木曽義仲が来れば、法皇を連れ、北陸へ逃げようとするでしょう。それは、何としても避けたかった彼ら。義経たちが駆け付けたときも、源氏の白旗は義仲も同じですので、「こんどこそ、世も終りだ」と騒いだほどだった、と『平家物語』は記します。
そこへ、さっそうと現れたのが、九郎義経でした。原文を紹介します。

『平家物語』巻第九「河原合戦」より

巻第九 河原合戦 義経 

巻第九 河原合戦 義経 2

訳文

九郎義経のその日の装いは、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧を着て、鍬形を打ちつけた甲の緒をしめ、黄金作りの太刀をさし、切斑の矢を負い、滋籐の弓の鳥打を、ひろさ一寸ほどに切った紙で、左まきに巻いていた。それは今日の戦いの大将軍のしるしと見えた。
法皇は、中門の櫺子からご覧になって、
「頼もしい者どもだ。みな、名のらせよ」
と言われたので、まず、大将軍九郎義経、つづいて安田次郎義定、畠山庄司重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重資、とそれぞれが名のった。義経ともに六人の武士は、鎧の縅はさまざまであったが、面魂も骨柄も、いずれ劣らぬ勇士である。
大膳大夫業忠は、法皇の命令をおうけして、九郎義経を広廂の際へ召し、合戦の経過をくわしくお尋ねになると、義経はかしこまって、
「義仲謀叛の事を聞いて、頼朝はたいそう驚き、範頼、義経をはじめとして、おもだった武士を三十余人、総勢六万余騎を派遣いたしました。範頼は勢田をまわりましたがまだ参りません。義経は宇治の軍勢を攻め落して、まずこの御所をお護りするためはせ参じました。義仲は賀茂河原をのぼって逃走しましたが、兵どもに追わせておりますから、今ごろはきっと討ち取ったことでしょう。」
と、なんのこともないように申された。
法皇はたいそうお喜びになって、
「感心なことだ。義仲の残党が参って乱暴をすることもあろう。おまえたちはこの御所をしっかり警備せよ」
と命じられたので、義経はかしこまって承り、四方の門を守りかためて待つうちに、兵たちがかけ集って、まもなく一万騎ほどになった。

九郎義経は、まずは精鋭の五人ばかりを連れ参上します。そして、戦いは兵たちにまかせているから、今ごろ義仲も打ち取られているでしょうと、こともなげに言ってのけました。

後白河法皇にとっては正に、救世主。つり橋効果も抜群です。このまま、御所を守るように、と早速のお達しです。

法皇の覚えめでたく、初陣をきめた、義経。義経が言った通り、義仲はじき、打ち取られました。

ここは、法皇を義仲に取られては、戦況が一気に怪しくなった場面。ですから、まず、入京したならば法皇を守るのは重要な任務です。逆に言えば、法皇さえ確保できれば、勝ったも同然だったはずです。何とか、京での戦闘も短時間で終わり、首尾よく義仲を討てたのは、義経のこの動きによるところが大きかったはずです。

俺が義仲を討つ、と突っ走らなかったところは、さすがの大将軍、といったところでしょうか。それとも、後白河法皇の守護の方が、華々しい仕事だと認識してのことだったのでしょうか。義経なら、後者も大いにあり得そうですよね。

しかも、法皇は諸手を挙げて、義経を評価しています。これは、義経の自尊心を大いに揺さぶったのではないでしょうか。軍を動かし戦ったことを、最大限に評価してくれる相手を、見つけてしまった、と取るのは、少し穿った見方でしょうか。

このとき、後白河法皇が、いたく義経を気に入ったことは確かです。そして、このこともまた、頼朝と義経の一つの火種となってゆきますね。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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