大河、第3話では、1180年4月から5月にかけて、都で以仁王と頼政挙兵、そして敗北と一大事件が起こりました。以仁王の令旨を源行家から届けられ、しかし瞬く間に敗戦の知らせが来たのですから(大河では開戦と敗北の知らせが同時に来たと、なっていましたね)頼朝も北条氏もそれはそれは混乱したことでしょう。
その後届いた、以仁王の令旨を受けっとった者が追討される、という三善善信の早とちりな知らせ。そして、三浦義澄が届けたという説もある、後白河法皇の密旨。
「吾妻鏡」では、三善善信の知らせ、三浦義澄の訪問は1180年6月のことと記されていますので、6月の段階でどうやら、頼朝は挙兵の意思を固めたようです。源氏累代の御家人を招集する書が安達盛長によって届けられたとも記されます。
さて、戦をするとなると準備がいりますよね。近隣の武士たちも、普段のような軽装でふらっと集まるのとはわけが違います。最初から味方をするつもりの武士たちも、一旦、領地へもどり、秘密裏に戦支度をしなくてはなりません。
さて、開戦の8月までに間に合ったのでしょうか。
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最初の味方
味方集めに奔走、安達盛長
山木館襲撃の前、頼朝に最初から味方していた人物として挙げられるのは誰でしょう。
まずは、頼朝のすぐそばに仕える安達盛長。
大河ドラマで、爺やのように隣に控えている彼は、頼朝の乳母・比企尼の娘婿。絶対的な味方の一人です。
比企尼について詳しく解説している記事は→乳母が組織した?!家系図でみる頼朝親衛隊
そして、今や頼朝の居所となった館の主・北条時政と、その子宗時・義時も、運命共同体と言えますね。
では、それ以外の味方とは?挙兵当初から、頼朝に味方した者たちを調べてみました。
まずは、神仏?戦いの日は、占いで決まった!
『吾妻鏡』ではまず、頼朝が味方としたのは、宗教家でした。面白いのですが、戦に際しても神仏の加護を請おうとする考え方は古くからあります。
人生を懸けた大戦をするのですから、その心理はとてもよく分かりますよね。
また、以前の記事でも示した通り、寺は一つの勢力でもあった時代。味方としてたのめば、居所や食料、兵力さえ期待できたのです。
頼朝が、大願を打ち明け祈祷の儀式を行わせたのは、走湯山(現・伊豆山神社)の覚淵という人物でした。頼朝は祈祷の後には布施を渡し、さらに戦の後には、土地も与えると約束をします。
後に、山木館襲撃の後、政子が身を寄せるのはこの覚淵のもとです。
さらに、佐伯昌助・昌長という、筑前の住吉神社の元・神官兄弟や頼隆という伊勢神宮の祠官の子孫も頼朝のための祈祷師として傍に置きました。彼らは流人であったり、主人に背き参じた者たちでした。彼らの占い、卜筮(ぼくぜい)で8月17日、寅卯の刻(午前4時~6時ころ)、山木館を攻めると決めたと「吾妻鏡」にあります。
もちろん、三島社の神事などで相手方の守り手薄になるであろうことなども踏まえたはずですが、占いで決めた、ということを記録に残すほど重要視していたことは面白いですよね。
近隣の武士たち
近隣の武士たちの糾合には、安達盛長が活躍しました。
「相模国では請文(うけぶみ・賛同を意味する手紙)を差し出すものは多い。しかし波多野馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は、呼びかけに応じないばかりか、いくつもの悪口さえ言っている。」
と、どうやら乳母つながりでも味方にならない者の報告もしています。
山内経俊は、頼朝の乳母の子。大河ドラマですでに第2話に登場し「挙兵の際には必ず駆け付けます」と頼朝に豪語していましたよね、どうやら裏のある人物のよう。
しかし、相模国には味方が多い、ということは安達盛長の糾合が上手くいったことを表していますね。それだけ、関東には平家の支配を嫌う者も多くいたのでしょう。
スパイ作戦
もう一人、この山木館襲撃において頼朝方で働いた、面白い人物がいます。
藤原邦通という人物は京を離れて遊歴していたところを安達盛長の推薦で頼朝に仕えました。彼は、うまいこと山木館の客人となって数日滞在、屋敷とその周辺の詳細な絵図を頼朝に持ち帰ります。
つまりはスパイです。日本的に表現すれば忍者ですね。忍者、という定義はまだなかったかもしれませんが。役割としてはこの時すでにあったようです。
このように、彼らは、流れ者なども能力によって戦力としていったのですね。時間のないなかで、猫の手も借りたい状況だったのかもしれませんが、とても上手い策です。
頼朝の人心掌握「お前だけが、頼りだ」
さて、武士たちに話しを戻します。
『吾妻鏡』には、山木館襲撃を前にすでに頼朝の周辺にいた武士たちの名が記されています。北条時政・宗時・義時はもちろんいますが、それ以外に名が挙がっているのは
工藤茂光、土肥実平、岡崎義実(三浦義継四男、三浦義澄の叔父)宇佐美祐茂(工藤祐経兄)、天野遠景、佐々木盛綱(佐々木秀義三男)、加藤景廉(かげかど)ほか。
土肥実平は現在の湯河原町、真鶴町付近の武士。大河第2話で、頼朝と義時に朝湯を使わせてくれていた、あの人物ですね。
彼は今後も、大活躍します。他にも、三浦義澄の叔父や、あの前回の記事で紹介した、工藤祐経の兄の名もあります。
さて、彼らに対し、頼朝はある行動に出ました。『吾妻鏡』(現代語訳)から抜粋します。
「一人ずつ順番に人気のない部屋へ呼び、合戦のことについてお話しになった。そして、『今まで口に出して言わなかったが、ただお前だけが頼りだから相談しているのだ。』と、一人一人に丁寧な言葉をおかけになったので、勇士たちはみな、自分だけが頼朝に期待されていると喜び、それぞれが勇敢に戦おうという気持ちになった。」
しかも、『吾妻鏡』には「しかし真実や重要な密事は、時政以外には知らされていなかった」と書かれています。
完全な、人心掌握。計算のたまものです。これが、記録に残っていて良いのか、とツッコミたくはなりますが。それ、ばれずにやらないと、と。
とにもかくにも、この時間のないなかでの「お前だけ」作戦は非常に上手くいったようですね。
なかなか集合できない御家人たち
一番の頼り、三浦一族はまだ合流せず
山木館襲撃は、8月17日でした。さて『吾妻鏡』二十日の記載では、
「三浦義明(義澄の父〉の一族をはじめ、以前から(頼朝に)同意する意志を示した武士がいたのだが、今に遅参している。これはあるいは海路を隔てて風波を凌ぎ、あるいは遠路ということで苦労しているからであろう。」
と書かれています。
そう、戦いの火ぶたは切って落とされたのですが、頼みの三浦氏と合流も、まだかなっていません。相模国で、戦支度をし、こちらに向かっているはずでした。山木館襲撃の時、三浦義澄・義村親子も、三浦の親族である和田義盛もまだ、いないのです。
佐々木四兄弟
さて、大河には描かれないかもしれませんが、頼朝挙兵当初から付き従った中でも有名な四兄弟がいます。『吾妻鏡』に登場する、佐々木四兄弟についてご紹介します。
先ほどの、「お前だけが頼り」と言われた武士の中に佐々木盛綱、という人物がいました。彼はその、四兄弟の三男です。
佐々木四兄弟の父・佐々木秀義は、源為義(頼朝の祖父)の養子であった人物です。頼朝の父・義朝に従い、保元の乱・平治の乱にも加わりました。保元の乱の後、近江国(滋賀県)にあった佐々木庄を取り上げられたため、子らと共に母方の縁者である藤原秀衡を頼って行く途中、渋谷重国のもとに身を寄せました。
『吾妻鏡』では、頼朝が配流された後も、平家の権勢におもねらなかったために、祖先からの相伝の土地である佐々木庄を取り上げられた、とし、その勇敢な行動に感心した相模国の渋谷重国が彼らを留め置いた、としています。
佐々木秀義と四人の子らは、相模に住んで20年となっており、その間に長男・定綱と三男・盛綱は頼朝に仕えるようになったのです。
寝返ったかと、気をもむ
佐々木秀義は、大庭景親が頼朝挙兵の情報をつかんでいる(長田入道から大庭景親へ知らされた)ことを知らせるため、長男・定綱を頼朝の元へ行かせます。これに感銘を受けた頼朝は17日が山木館襲撃の日であることを告げ、16日には戻るようにと命じます。また、渋谷重国にも書を届けさせました。
ところが、16日に佐々木兄弟は姿を現しませんでした。これに対し
(頼朝は)「渋谷重国は平家に恩があって仕えており、佐々木は渋谷に同心するであろう。」
「一旦の志に感じて深く考えずに密事をもらしてしまった、と心を悩ませた」
と記されています。
この時、味方の人数の少なさに、山木館襲撃を延期しようかと、ためらう程だったよう。しかし、遅くなっては事が露見してしまいます。
これは何とも、困ります。戦をしかけようというのに、味方が合流できていません。頼朝の焦りは大きかったでしょうね。
佐々木兄弟が到着したのは、襲撃の当日17日、午後2時頃でした。寝返ったわけではなかったのです。四兄弟のうち、二人は疲れた馬に乗り、二人は徒歩で現れたのです。洪水のため遅れた、と謝罪したと記されています。
襲撃は、17日の朝のはずでした。しかし、仕掛けないまま、その日にあった三島社の神事には安達盛長が御使いとして出向くなど、平静を装いつつ、いたずらに時を待っていたようです。
「吾妻鏡」では、佐々木兄弟が到着したのは羊の刻、午後2時ごろ。頼朝は感動の涙を浮かべながら、「汝らが遅れたために今朝の合戦をすることができなかった」と攻めるという、情緒不安定な対応をしたようです。頼朝のこの様子が記述通りだった、という確証はありませんが、心情はひしひしと伝わります。待つ間は、気の遠くなる思いだったでしょう。
何とか、開戦!!
さあ、どうするか。これ以上延ばすと、情報がもれる、ということで、山木館襲撃は決行されます。なんとも、あぶなっかしい、戦の始まりだったわけです。
時政の軍勢は山木館、佐々木定綱・高綱・経高は堤信遠の邸宅を攻めました。経高が矢を受けたようです。頼朝の警護に残っていた佐々木盛綱らも加勢し、武士たちが兼隆主従の首を持ち帰ったのは翌朝のことだった、と記されています。
辛くも合流できた佐々木兄弟、その後も数々の戦で名を挙げていきます。
大河では、山木館襲撃をどう描くでしょう。佐々木兄弟が登場しないのであれば、何か他のグダグダを用意しているかもしれません。楽しみですね。
そして、肝心の三浦一族と次の戦いで、合流できるのか?!また次回、書いていきます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献 現代語訳「吾妻鏡」 五味文彦・本郷和人(編)吉川弘文館
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