【鎌倉殿の13人】粛清、頼朝の恐ろしさ【上総介広常】

上総広常 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

 

頼朝の強力な後ろ盾だったはずの上総介広常。彼は、後に粛清だらけとなる鎌倉で、最初に鎌倉で”粛清”された御家人となりました。

「この鎌倉でわしの知らぬことはない」「(策を先に考えついたのは)わしであった」

「上総介は言った。御家人は使い捨ての駒、と。やつも本望だろう」

なんとも恐ろしい、大河ドラマでの頼朝の言葉。上総介を粛清した、頼朝の真意とは?上総介の死について、考察しました。

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上総介広常の最期

彼の最期について詳しく記しているのは、慈円の著した『愚管抄』『愚管抄』に於いては、1183年12月、景時と双六に興じていた最中、景時は突然盤をとびこえて広常の首を搔い切ったとされます。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配されました。

この上総広常の粛清に関しては、「梶原景時の讒言によって広常が疑われ、この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。」

という、広常の死の責任を、梶原景時の讒言のせいとする解釈もあるようです。

しかし、慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が京に上洛した1190年、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記しています。

この言いようからは、頼朝が上総広常の粛清を”後悔”などしていないことが読み取れます。

頼朝が、上総広常の粛清を画策、梶原景時に実行させたと考える方が自然でしょう。

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なぜ、上総広常が粛清されたのか

東国独立志向が頼朝の意に合わなかった説

「上総広常の東国独立志向が、頼朝の親朝廷路線と合わなかった説」というのが、上総広常が殺された要因としては有力な説のようです。

度々書いてきましたように、当時の関東の武士たちは、京へ攻め上る事はそれほど望んでいませんでした。平家の圧政が除けられれば、それで良かったようです。彼らは関東で各々が領地を治め、連合国のような形で、平和を保っていました。

さらに、鎌倉が築かれた初期のころは、まだまだ、頼朝を”絶対君主”とは思わない御家人も多かったでしょう。連合国の代表者、くらいの認識だったかもしれません。

上総広常はその軍勢の多さから、御家人たちの中では抜き出た権勢を持っていました。関東の御家人たちの「関東が無事自分たちで治められれば、打倒平家にまでは動きたくない」という思惑を受け、上総広常がその中心として頼朝に意見していた可能性は十分あります。

1180年10月の「富士川の戦い」で、勝ちに乗じて上京することを、三浦義澄・上総広常らが止めていたことも、その”自治を優先”という考えを表していますよね。

しかし、関東の武士たちの思惑と、頼朝の思惑は違います。頼朝はあくまで、日本全土における、源氏の復権を視野に動いています。足元の御家人たちを上手くまとめ、自分の思いのままに動かさねば、この悲願は達成できません。

 

木曽義仲に同調した説

上総広常が粛清された要因としては、他にも、「上総広常が木曾義仲と同様、以仁王の子・北陸宮を推しており、親義仲であると頼朝に思われた説」などもあります。
こちらの説であれば、時期的にも、納得しやすくなります。1183年といえば、木曾義仲の進軍・上洛そして、朝廷との不和という流れの真っただ中。頼朝は、義仲に先を越され、焦っていたかもしれません。
そんな中、上総広常に、義仲と同調するような動きあるいは言葉があれば、自分が源氏の頭領である、という立場が危うくなってしまいます。

 

どちらにしても、頼朝にとって、上総広常が扱いにくい位置にいた、ということは確かなようです。挙兵の際は、上総広常が大軍で味方となったために、命運をつないだ頼朝。
しかし、それだけに大きな勢力と発言権を持った広常を、これから先も内に従えていくことが、困難だと判断したのです。

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関東御家人の統制のため、利用された広常

こうしてみてみると、倒平氏・京への進軍に消極的な者たちの代表格であり、勢力が強く影響力もあった上総広常は、見せしめとして殺された、と考えられます。
彼ほどの者でさえ、頼朝の意見に沿わなければ殺されるのだ、ということを、御家人たちに見せつけられれば、頼朝が御家人たちを統制しやすくなります。頼朝は、関東の武士たちを並列の協力者とみているのではありません。完全な上下関係である、と知らしめたかったのです。

上記にあるように、後に朝廷向けに「朝廷をないがしろにした上総広常を誅殺した」という趣旨で頼朝が伝えたと書かれましたが、「関東の独立志向(西国での戦はしたくないだけ)→朝廷をないがしろにしている」という論理のすり替えを頼朝はしています。どちらかというと、頼朝に都合よく兵を出してくれないから殺された、という方が正解でしょう。

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冷徹で合理的、頼朝の恐さ

実際上総広常が殺されたとき、梶原景時の”讒言”があったのでしょうか。なかったと言い切ることはできません。しかし、やはり、梶原景時だけの思惑で、ことが進んだとは考えにくいでしょう。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第15回では、大江広元と頼朝自身が、上総広常を陥れる計略を廻らせた、としました。梶原景時は、頼朝の指示に忠実に動いた結果スパイとなっています。義時さえも騙され、上総広常を嵌める片棒を担がされてしまいました。頼朝の反対派を黙らせた上で、頼朝のために動いた上総広常を粛清する。もともと、上総広常を殺す前提で、しくまれた計略でした。

このドラマの流れで解釈すれば、大江広元が第14回の最後で頼朝にした助言は「上総広常は、大きな勢力を背景に、頼朝に同格な者として意見してくるだろう。それを見れば御家人たちは、頼朝を絶対君主とは思わない。鎌倉軍を頼朝の元でまとめるなら、上総広常は殺すべきだ。頼朝に反対すれば殺される、と御家人に示すべきだ。」といった内容だったでしょう。なんとも、合理的で冷徹です。

ドラマ第11回で、”じさま”こと伊東祐親を恩赦により生かすかにみせて、自身の跡取りに悪影響であると判断すると殺害させたりと、ドラマでの頼朝は冷徹で怖い人物としての側面はすでに、描かれていました。
実際、頼朝の冷徹で合理的な選択は、史実にも読み取れることは、以前ご紹介しました。義経を追い落とすときも、頼朝は義経を利用し、邪魔な奥州藤原氏まで滅ぼしましたね。

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「御家人など、駒のひとつ」ドラマで、広常が頼朝に言ったその心構えは、支配者たる者が持たねばならない資質の一つかもしれません。言われるまでもなく、頼朝はそれを実践していたことになります。上総広常も駒のひとつに過ぎなかったというわけです。

兵を動かし、国を支配する。それは、ある種の感情を排した帝王学を基盤にした上できること。しかし、やはり、恐ろしさを感じます。

さて、上総広常が粛清されたことは、御家人たちの意識に多大な影響を与えたでしょう。しかし、それでも小さく畏まってしまうかというと、そうでもありません。頼朝は、自分のための働きを認めれば、土地という褒美も与える、としたからです。上下関係ははっきり示し、従わない者は死を、働きが認められれば褒美が与えられる、というわけです。正に、飴と鞭ですね。

御家人たちは、表向きには、鎌倉殿を頂点としたヒエラルキーに従い動き出しました。彼らは武功を競い合い、戦に邁進します。

そんななかでも、頼朝に意見することを辞めなかった人物もいます。史実の政子は、亀の前以外でも愛人関係では頼朝を責めますし、愛人を追い出します。史実の時政も、表向きは静かですが、都の人脈を広げ、姻戚関係を結び、頼朝の指示ではない部分で根回しに余念がありません。
北条氏の面々、かなりの度胸の持ち主ですよね。表だっては、頼朝に従うようになった北条以外の武士たちも、各自の思惑や計略を陰に廻らせていただろうことは、容易に想像できます。

さあ、なんとか、頼朝は戦いのための上下関係を築くことができました。そうこうしている内に、義仲に先を越され、先に入京されてしまいますが。

ここから、巻き返しの知略戦、そして、打倒義仲、打倒平家の連戦へなだれこみます。大河ドラマ、どんどん盛り上がっていきますね。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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