【鎌倉殿の13人】トラブルメーカーな叔父、源行家【疫病神!?】

源行家 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

頼朝にとって、疎ましかった親族。筆頭は、のちのち危険な分子であることの分かる義経です。同時期に挙兵した木曽義仲もそうでしょう。

さて、忘れてはいけない人が、もう一人います。叔父・行家もまた、頼朝の計画をひっかきまわした一人でした。

挙兵からすぐの頃は、坂東を含む各豪族の力を最大限に集める必要があった頼朝。石橋山の戦いで敵対していた者も、投降すれば寛容に受け入れ、兄弟や親族が参じれば、大喜びで迎えています。

そんな中でも、坂東の武士たちが、頼朝の源家を支えているというより、坂東の自治を勝ち取りたいという思惑で動いたことは、頼朝も理解していたでしょう。そうなると、自身の血族でしっかり御家人たちを統制し、抑えたかったはずです。

頼朝をトップに、その組織に組み込める親族は大切な存在だったのです。

「頼朝をトップにその組織に組み込める親族」。この枠に、行家はまったくおさまりませんでした。

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第一のトラブル 令旨を届けに

令旨のせいで、頼朝は挙兵するしかない!

行家は、頼朝の父・義朝の弟。平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦には負けましたが、逃げ延び熊野で過ごしていたようです。

源氏 家系図 

 

1180年5月、以仁王の乱を起こした際、以仁王は、全国の源氏に令旨を届ける役目を行家に託しました。八条院の財力も、潜伏する源氏の兵力も期待できた、この計画。しかし、ごく早い段階で情報が洩れ、あえなく失敗に終わりましたよね。
さて、令旨を受け取ってしまったことで、追討を受ける可能性があるという状況が、頼朝の挙兵を促します。もちろん、それだけが要因ではなかったかもしれませんが、準備が十分できていないにも関わらず、頼朝が挙兵したということが、頼朝の焦りを感じさせます。

「石橋山の戦い」を辛くも逃げ延び、関東の気運が反平家に傾いて高まっていくなか、ちょうどいい旗印としておさまった、頼朝。伊豆・相模の武士、上総・下総の大豪族が味方に付いたことで武蔵の武士たちも続きます。甲斐の武田ものりました。本当に賭けのようだった挙兵が、まさに天運に守られたような成功をおさめたのです。

結果オーライ、という意味では、行家の令旨を届けるという行動が、頼朝をここまで押し上げたのかもしれません。

弟たち、頼朝のもとへ

1180年10月、平家の軍が自滅する形で「富士川の戦い」に勝利した頼朝。

ここで前後して、生き残っていた、全成(今若)義円(乙若)義経(牛若)、1183年までに範頼と、頼朝の異母弟たちが集いました。
(兄二人は、平治の乱で亡くなっています。頼朝の同母弟・希義は、頼朝と同時期に土佐に流されていましたが、平氏により打ち取られました。)

親族を、御家人たちの上に置き、しっかり秩序立てた統制を取りたかった頼朝には嬉しいできごとだったでしょう。

しかし、ここにきて、叔父・行家が、どうやら自分勝手な動きを始めたようです。

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第二のトラブル 俺も挙兵、したい!

「墨俣川の戦い」1181年3月

行家はどうやら、自分も頼朝と同格に、独自の地位を獲得したがっていたようです。行家は、尾張国・三河国で旗揚げし、東海源氏を形成しようとします。
頼朝、もちろん面白くはなかったでしょう。しかし、一応は、頼朝の弟の一人、義円と1千の兵を援軍として送りました。勝てば、恩は売れます。『平家物語』では、源氏方が5千騎、平氏方は3万騎。

戦いの様子を少し、あげてみます。

このときの平家方の将は、平重衡と平維盛。平家は墨俣川の西に陣をしきます。墨俣川の東には、行家義円の源氏軍。義円が武功を狙って、無謀な朝駆け(夜襲とも)で墨俣川を渡り、打ち取られました。無謀過ぎる義円の渡河に、義円の兵たちは続かなかったようです。にもかかわらず、義円に負けじと渡ってしまったのが行家でした。渡り切れても背水の陣となってしまい、この戦いに負けてしまったのです。

ほんとうに、行き当たりばったりな行動です。

まず、旗揚げしたのなら大将は行家のはず。大将は、部下の武士たちを上手く采配して、武功を競わせ、戦の大局を勝利へ導く役目ですよね。武功に対する褒美は与える側です。
大将がなぜ、指揮を執らずに部下に張り合って、先頭を切ろうとしてしまったのでしょう。素人の私でもツッコミを入れてしまいます。大将が先陣を切るのは、よっぽど機動力を重視しているか、相手の意表を突く策があってのことでなくてはなりません。そういえば、後の義経も、似たような猪突猛進戦法を主張し、梶原景時を困らせますね。

ともかく、行家は負けますが、生き残ります。よく生き残れたものです。

連敗しながら、三河国まできて、今度は平知盛と矢作川で合戦。ここでも負けましたが、知盛は病のため、軍を引いたようです。行家は鎌倉へ逃げこみました。
この時、追撃があるのでは、と鎌倉も気をもんだことでしょう。
しかし、飢饉の影響もあったのか、それ以上の進撃はありませんでした。思い付きのように始められた戦いに、頼朝は巻き込まれるかもしれなかったわけです。

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第三のトラブル 義仲と行動するもん!

頼朝との不和

鎌倉に、そのまま居ついてしまった行家。頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立します。すると今度は、甥の源義仲のもとに行ってしまいます。

自由過ぎて、驚いてしまいますよね。

ちなみに、頼朝の父と義仲の父は対立し、義仲の父は頼朝の兄によって討たれています。
頼朝とほぼ同時期に旗揚げした木曽義仲は、頼朝とはまったく別の勢力と捉えた方が良い存在。何とか、領地の住み分けをして、戦にならずに済んでいただけの相手です。

そんな、緊張関係の二方を、簡単に刺激してしまう、行家案の定、頼朝は怒り、木曽義仲と頼朝は一触即発の状態になってしまいました。

こうして、木曽義仲の嫡男・木曽義高が大姫の許嫁という名目の、人質となることになったのですね。

ここでも、行家の行動のせいで、打倒平家の大事な時期に、同族での争いが激化してしまうところでした。

ここまでくると、行家の行動がわざとであるようにも、思えてきます。わざと、頼朝を戦火に巻き込もうとしている、のでしょうか。しかし、それにしては盛大な嫌がらせとしてしか、機能していないので、違うのでしょう。

やはり、戦は下手

1183年5月、有名な「倶利伽羅峠の戦い」が起こります。この時行家も、義仲の分けた軍の一つを率いて、別の場所で戦っていました。平家方は、軍を二分していたのです。義仲が平家主力部隊との「倶利伽羅峠の戦い」を、行家は能登国国境の辺りで、平家軍の別動隊と戦いました。しかし、行家は敗北。義仲が「倶利伽羅峠の戦い」で勝利していたため、平家が引き返し、命拾いしたのです。

行家は、義仲と共に攻め上り、ちゃっかりと宇治を掌握します。そして、1183年7月、平家都落ちの後、入京したのです。

助けてくれた甥と勲功を競う?!

入京の後、義仲行家が後白河法皇の御前へ参じた際、わざと前後に並ばず横並びであった(「彼の両人相並び、敢て前後せず、争権の意趣之を以て知る可し」)ことは『玉葉』七月二十八日条に記されています。さらに、行家が、8月10日の勧賞で、義仲の処遇との間に差があるという憤懣があったので16日には任国が替えられた、という意味の記述が『玉葉』十日、十二日、十六日の条に記されています。

ここまで、源氏の糾合では情報が洩れ、行家自身が戦をすれば負け、負ければ頼朝や義仲に頼って、命運をつないだ、行家。とんだトラブルメーカーなのですが、公卿議定において、頼朝・義仲・行家それぞれに位階と任国が与えられることとなりました。主張はしてみるものです。

結局、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認されますが、これすら、行家は不満だったわけです。義仲と行家、後に対立していくことになりますが、原因はここにもありそうですね。

ちなみに、義仲と不和になり、逃げるように向かった平家討伐ではで播磨国での平知盛・重衡軍との「室山の戦い」で敗北。河内国の長野城で立て籠もりますが、そこでも義仲が派遣した樋口兼光に敗れて紀伊国の名草へ逃げ込んだのだそう。とことん、戦では弱かったようですね。

頼朝にとっては、目障りな存在

頼朝からすれば、計画や目算をひっかきまわされて、迷惑な叔父・行家。すでに、勝手なタイミングでの旗揚げで頼朝の弟は一人犠牲となり、勝手な出奔では、木曽義仲との争いを誘発、とトラブルメーカーでした。

しかし、父・義朝の弟であり「平治の乱」では兄・源義朝に味方して従軍した人です。正面切って敵対してくるわけでもなく、義仲ほどの勢力も、戦力もありません。今一打ち取り辛い、という存在です。

親族付き合いって、難しいんだなあ、なんて感じてしまいますねw

 

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第四のトラブル 義経と行動するもん!

義仲が頼朝の派遣した頼朝の弟の源範頼義経の軍勢に討たれた後、行家は1184年2月に院の召しによって帰京しています。その後の鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって和泉国と河内国(河内源氏の本拠地)を支配していました。

ついに頼朝、行家討伐を決断

1185年8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は「壇ノ浦の戦い」後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に後白河院から頼朝追討の院宣を受け「四国地頭」に補任されました(義経は「九国地頭」)。しかし行家らに賛同する武士は少なく、11月行家・義経一行は都を落ちました。大物浦で暴風雨にあって西国渡航に失敗した後は、次第に追い込まれ、逃亡の末に和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏します。1186年5月、地元民の密告により露顕し、捕らえられ山城国赤井河原にて斬首されました。

1185年8月、ついには、正面切っての対立となってしまいました。義経も、この叔父は頼朝の指示通り、討ちとってしまえば、違う道も開けたかもしれません。兄の指示に従う姿勢、これを頼朝は最後にもう一度試したのかもしれないのです。

これまでの経緯で読み取れるように、義経・行家は頼朝の勢力にとって危険分子でした。組織の中で、自分の立ち位置はどこか。その組織が最終的に何を目指しているのか。大局にあって、自分の功だけを急いでは、仲間や組織は危険であること。きちんと考えるべきでした。

嫌なら、頼朝の組織にいる必要もないのです。完全に独立した勢力として対抗する、という選択肢もあります。あるいは、何も恩恵はなくとも、出家するなりして、逆らわない姿勢を示す、という手段もありました。しかし、行家も義経も、そうはしませんでした。それらが、頼朝に疎んじられた要因でしょう。
なまじ、血筋が頼朝と同格で、貴種であったことで「家族だから来てあげたのに、なんで、大事にしてくれないの?」という思考になってしまったのかもしれませんね。

それにしても、行家の行動は逐一、トラブルを起こしてしまいます。彼に頼られた相手は、一度は彼を受け入れており、交渉力であったり、人を懐柔する能力は人一倍持ち合わせていたのだろうと考えられます。しかし、彼に頼られた人は、次々とトラブルに巻き込まれています。

ここまで、トラブルと共にあるというのも不思議なものです。検索ワードで「行家 疫病神」というものも表示され、確かに!と笑ってしまいました。しかし、彼がひっかきまわしてくれたおかげで、時代も大きく動きましたね。神様が台本でも書いているようです。

さて、今回はだいぶ、私見によった記述になってしまいました。解釈の一つとして、捉えてくださいね。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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