【鎌倉殿の13人】穏やかには死ねない?頼朝の兄弟【個性的な面々】

頼朝の弟たち 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

鎌倉殿の13人、第10話。頼朝が欲していた家族、弟たちが次々と参上しました。反平家の旗のもとに集まった坂東武者や何とも胡散臭い者たちが大勢集う中、頼朝にとっては弟たちは頼もしい存在。

しかし、なんともちぐはぐな、5人の兄弟の様子が面白い描写でしたね。

どうやら生まれ育ちがバラバラの彼ら。それぞれ強烈なキャラクターの持ち主です。そして、その死もまた、穏やかではありませんでした。4人それぞれの人柄と、死について紹介します。大河を御覧の方、ネタバレあります、ご注意を。

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頼朝の兄弟

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源氏 家系図 

源義朝の子 家系図頼朝の父・義朝にはたくさんの子がいます。ここでは、分かっている11人を記しています。頼朝の兄、義平と朝長、義門は平治の乱の際、それぞれ亡くなりました。(義門は文献にその最期が見つかっておらず、推測されるのみ)

頼朝は、平治の乱のとき、13歳。池禅尼の嘆願で処刑を免れ、伊豆へ配流されました。平清盛は激しやすい人物として『平家物語』に描かれますが、このとき多くの源家の子供を生かしており、実際は情に篤い人物だったのかもしれません。

頼朝と同母の弟・希義、同母の妹・坊門姫も生かされ、希義は土佐に配流。頼朝挙兵の折りに土佐で、平家により討たれています。坊門姫は嫁いでおり、難を逃れたようです。

ドラマでは、全成、義円、義経、頼朝は幼いころに、一度は会っているとしています。しかし、余りにみな幼すぎ、思い出話もかみ合っていませんでした。実際、義経は父・義朝が平治の乱を起こし、亡くなった年の生まれ。兄弟どころか、父の記憶もないでしょう。

さて、全成、義円、義経、範頼を迎え、頼朝は源家をトップに据えた、御家人との主従関係を築こうとします。ヒエラルキーのトップはもちろん頼朝。その下に兄弟を据え、父の縁の武士を据え、そしてその下が御家人たちです。さあ、坂東の武士に飲み込まれそうだった頼朝、足場を固めます。

 

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駆け付けた、弟たち

『吾妻鏡』によると、頼朝の挙兵を知り、駆け付けたのは全成・義経・範頼。義円(ぎえん)に関しては『吾妻鏡』に頼朝の元へ参じた、という記述はなく、どちらとも分かりません。しかし、「墨俣川の戦い」に、源氏方として戦った記述があり、頼朝に参じてから、頼朝の指示で向かっていてもおかしくはないようです。

弟たちのうち、全成・義円・義経は常盤御前の子。美女として知られる女性ですね。今若・乙若・牛若と呼ばれていた幼いころに、それぞれ醍醐寺・園城寺・鞍馬寺に出されています。

阿野全成

阿野全成

 

義朝と常盤の子(義朝の七男)(義円、義経は同母弟)幼名、今若。平治の乱の時は7歳。醍醐寺にて出家。通称、悪禅師とされ、ドラマでの品のよい風貌よりは、粗暴な悪僧、といった風だったかもしれません。

『吾妻鏡』では1180年、8月の頼朝挙兵を知り、駆け付け10月に参じたとされます。兄弟で一番早くに参じています。

1180年11月頃、義時と政子の妹、阿波局(ドラマでは実衣と名付けられています)を妻とします。そして、駿河国阿野荘を領有し鎌倉幕府の御家人として仕えたとされています。
阿波局は、後の1192年8月頃に、頼朝と政子の次男、千幡(実朝)の乳母となります。

全成は、北条の娘、阿波局を妻とし、頼朝亡き後は北条と足並みを揃えていたようですね。1199年以降、頼家と比企氏VS実朝を押す北条氏という争いの中、全成は1203年、5月に常陸国に配流され、6月、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されました。享年51。その死は二代目鎌倉殿・頼家の勘違いによって殺されてしまう、という少しかわいそうなものでした。頼家は北条氏が、全成を推していると考えたようですが、実際は実朝が北条氏の推す次の鎌倉殿でした。

義円

義円

 

義朝と常盤の子(義朝の八男)(全成は兄、義経は弟)幼名、乙若。平治の乱の後、園城寺にて出家。

最初で最後「墨俣川の戦い」

1181年3月、トラブルメーカーな叔父・源行家が尾張で挙兵すると、その陣に参加。墨俣川河畔にて平重衡らの軍と対峙します。この時、義円は単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試みますが失敗。平家の家人と交戦の末に討ち取られました。

まずは猪突猛進、突き進む、という行動を範頼にしろ、義経にしろ、この義円にしろ行ってしまうのは、なんなんでしょう。勇猛な武将の血が騒ぐのでしょうか。

『吾妻鏡』には義円が頼朝のもとに赴いた記述がないため、義円は直接尾張に入り行家とともに独自に挙兵したとされる説もあります。ですが、頼朝が打倒平家の兵をあげた際にその指揮下に合流し、頼朝の命により援軍として行家のもとに派遣された、とする説をドラマでは採用していました。

叔父・行家はこの頃の養和の飢饉のさなか、頼朝と示し合わせたのではなく、独自に挙兵。そのときの戦が「墨俣川の戦い」です。合戦の結果は行家率いる源氏軍の大敗北であり、敗因としては行家と義円で先陣を争った指揮系統の乱れ、また源氏方が低湿地を背後にして戦ったため機敏な退却ができなかったことです。尾張は、平家にとって地の利がよく、舟での物資の輸送もできます。余りに見通しが甘いように思えますが、行家は、自分も挙兵がしたかったのでしょう。それに対し頼朝は苦々しく思いつつ、一応、援軍として義円に千騎ほどつけて送った、ということのようです。

思い付きの戦に、頭から突っ込み、亡くなってしまった義円。ちなみに、叔父・行家は逃げ延び、まだまだ頼朝を刺激し続けます。

義経

義経

 

義朝と常盤の子(義朝の九男)幼名、牛若

彼については、別ページに紹介しています。

【鎌倉殿の13人】なぜ、頼朝に嫌われたのか【”無邪気なサイコパス”義経】

【鎌倉殿の13人】戦の天才、それは無法者のなせる技?!【源義経・年表】

彼は、戦での功績は大きいのですが、どうやら組織人としての立場は最後まで理解しない人物っだったようです。戦で得意としたのは猪突猛進な奇襲や火付け。御家人と同列で張り合い、組織は危険にさらされました。頼朝の指示を仰いで動く、という意識は低く、頼朝の忠臣、梶原景時らと度々対立しました。

強いだけにやっかいだった、とも言えますよね。後に、頼朝により追討され、平泉で藤原秀衡の子・泰衡に討たれました。

範頼

範頼

 

全成より年上(義朝の六男)です。母は遠江の遊女。身分の上では、他の兄弟に劣りました。通称、蒲冠者(かばのかんじゃ)。
1184年の木曽義仲に対抗するための上京では、一度は御家人と先陣争いの末、乱闘という事件を起こします。しかし、頼朝にそのことを叱責され、謹慎した後は、自身の立場をきちんと認識。後の源平合戦で活躍します。(「一ノ谷の合戦」の指揮。「九州進軍」。源平合戦の戦後処理など)頼朝に対し忠実で、御家人もよく管理しました。長期の作戦にも粘り強く取り組んで、逐一、報告をするなど、組織人として、優秀な人物です。
1193年8月、頼朝に謀反を疑われ、失脚
富士の巻狩りで、曽我兄弟の仇討ち事件に巻き込まれ、頼朝の安否が一時分からなくなった折り「源氏には、まだ自分がいる」という趣旨の発言があったとされ、それが原因で謀反を疑われたとされます。
巻き添え、勘違いで討たれるという意味では、全成と同じです。
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繁栄した者は、いない

いかがでしたか?個性豊かな頼朝の弟たち。誰一人、幸せに長生きし、子孫が繁栄している、とはならなかった彼ら。実際1199年、頼朝が亡くなったとき、上記の4人の兄弟で生きていたのは全成のみ。そして、頼朝の死の4年後には全成も殺されています。
鎌倉幕府を開いた、貴種の兄弟たちは、誰に負けたのか。推理小説なら、犯人は共通の誰か、となりそうなところです。やはり、北条氏の黒い結束を思い浮かべてしまいますね。実際のところも、ドラマの描き方も、知りたくてたまらなくなります。
次回、トラブルメーカーな叔父・行家についても書いていきます。
今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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