【鎌倉殿の13人】平氏、水鳥のせいで大敗?【富士川の戦い】

富士川の戦い 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

富士川の戦い

『吾妻鏡』によると、富士川の戦いは、1180年10月20日(『平家物語』では10月24日。諸説あり)と決まりました。駿河湾に注ぐ富士川と、周辺にあった湿地帯を挟んで対峙する、頼朝軍と平氏軍。

富士川の戦い

 

 

 

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物語に描かれた、富士川の戦い

物語と実態

『平家物語』では、合戦の直前、案内役の武蔵の武士斎藤実盛が語る東国武士の勇猛さに怖気づいた平氏が、水鳥の羽音に驚いて逃亡した、としました。

巻第五富士川より、訳文をご紹介します。

さて、こうして十月二十三日になった。明日は源平両軍が富士川で矢合せをすると定められたが、夜になって平家の方から、源氏の陣を見わたすと、伊豆・駿河の人民百姓らが戦禍を恐れて、ある者は野へ逃げ山に隠れ、ある者は舟に乗り、海や川に浮かんで、物を煮たり焼いたりする炊事の火が見えたのを、平家の兵どもは、
「なんと、おびただしい源氏の陣の遠火の多さだ。まことに、野も山も、海も川も、みな敵軍でみちあふれているようだ。なんとしたことであろう」
とあわてふためいた。
その夜の夜半ごろ、富士の沼に無数に群がっていた水鳥が、なにに驚いたのか、一度にばっと飛び立ったが、その羽音が、大風か雷などのように聞こえたので、平家の兵どもは、
「それっ。源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斎藤別当が申したように、きっと搦手にも回ることであろう。取り囲まれてはどうにもなるまい。ここを退いて、尾張川洲俣を防ごう」
と、とる物もとりあえず、我さきにと闘争した。あまりにあわてさわいで、弓を持つ者は矢を忘れ、矢をとる者は弓を忘れた。人の馬に自分が乗り、自分の馬は他人に乗られ、
あるいはつないだ馬に乗って駆けだして、杭の周りをはてもなくめぐる者もある。近くの宿場宿場から呼び集めて遊んだ遊女たちは、ある者は頭を蹴割られ、あるいは腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。
翌二十四日の午前六時ごろ、源氏の大軍二十万騎は、富士川の岸辺に押し寄せて、天に響き大地もゆさぶるほどに、三度、鬨の声をあげた。

戦う前に、すでに怖気づいていた平家の軍兵。彼らの目には、戦火を恐れて避難していた住民の炊事の火まで、敵陣のかがり火に見え、水鳥の羽音は、敵軍の奇襲の音と聞えたのです。

他の書物ではどうでしょう。

『吾妻鏡』では、甲斐源氏・武田軍の夜襲によって、水鳥が飛び立ち、羽音に驚いた平氏が退却するに至った、としています。

『玉葉』には水鳥のエピソードはありません。
この水鳥のエピソード、もちろん事実という確証はありません。しかし、後の時代にとって付けられた話しでもなく『山塊記』に「或者云ハク」として、このエピソードが記されています。当時の人々が、この戦いの様相について噂するとき、すでにこのエピソードも語られていたのですね。

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実際の富士川の戦い

実際の、富士川の戦いはどうだったのでしょう。

平家の追討軍は下向前に、頼朝軍が石橋山の戦いで敗北していたこともあり、現地の平家方の軍勢が反乱を抑えていると楽観的な予想をしていた、と思われます。

『平家物語』では、都を出たとき3万騎、途中で兵を徴集し、7万余騎の軍勢になったとしましたが、それも、国々の借り武者であったと記しています。
そもそも、どうやら7万騎というのも、そうとう”盛った”数だったよう。実際は1万騎ほどだったと思われます。

一方、頼朝は房総半島で、千葉常胤、上総介広常らを味方にした後、武蔵の武士らも糾合。畠山重忠、河越重頼ら始めは平家方だった武士も、頼朝方に付きました。この頃、頼朝は敵対していた武士であっても、降伏したものに寛容に接し、頼朝方への参入を促したのです。
三浦氏は、三浦義明(義澄の父)を畠山重忠・河越重頼らに討たれていますので、頼朝軍は内部に火種を抱えるようなケースもありました。しかし頼朝は、平氏の脅威を破るという大きな旗印で、関東の武士たちを団結させたのです。
ここに、北条時政・義時が交渉し味方になった、甲斐源氏の軍勢も加わります。

大庭景親、伊東祐親といった平家方は、勢力を拡大した頼朝軍に対抗できず、追討軍に合流すらできませんでした。
平家家人の駿河目代は、甲斐源氏によって、敗北しました。

そして、追討軍では、情勢の不利を見て、軍を離れる者も多くいたようです。戦いの直前には、『玉葉』によると軍勢を4千余騎と記し、さらにそこから、また投降者が出た、と記します。
「残ル所ノ勢、僅カニ一二千騎二及バス。」
1、2千騎しか残らなかった、と書かれているのですね。これが事実であれば、戦いの前にすでに、平家軍は崩壊していたようなものでした。

これでは、水鳥など飛ばなくても、逃げ帰るしかありません。

この、富士川の戦いで、平氏の追討軍を撃退したことで、頼朝の占領地域は”独立国”のような形となります。一連の戦いの論功行賞として、本領安堵・新恩給付が行われました。本領安堵は、改めて土地の所有者を明確にし、土地が脅かされれば頼朝軍の力で土地を守ることを約束したもの。新恩給付は、没収した土地を恩賞として与えること。

朝廷の定めた国司や、荘園の所有者の許可を取らず、土地の支配をすることで、頼朝は施政者として、振る舞ったのです。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

アニメ「平家物語」の原文考察もしています。平家方からみた、富士川の戦いの記事は以下

【平家物語】富士川の戦い【第六話】【びわが吟じた原文】

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