【鎌倉殿の13人】石橋山の戦い、頼朝・北条氏・三浦氏の動き【宗時、最期】

北条宗時 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第5回、放送されました。

さて、平家方の山木兼隆を破った頼朝。戦いの火ぶたは切って落とされました。もう、後には引けません。続く、伊東・大庭ら平家家人との戦い、都からの平家の軍勢との戦にも、備えなければなりません。山木館襲撃で初めて、実戦に挑んだ義時。史実ではこの時はまだ16歳でした。ドラマで父が山木兼隆の首をとる際、震えた描写には納得です。(実際には佐々木盛綱と加藤景廉が山木兼隆の首をとったとされます)そして、兄、北条宗時の演出は圧巻でしたね。

『吾妻鏡』ではこの後の彼らの戦い、石橋山の戦いはどのように書かれているのでしょう。(兵の数・騎数は、別資料より。兵の数について、詳細な日付については諸説あるようです。)

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三浦氏と合流できぬまま、石橋山の戦いへ

8月17日~18日、山木館襲撃を決行した頼朝、北条氏。彼らとしてはまず、相模の有力豪族、三浦氏と合流したいところです。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では父の代では北条時政と三浦義澄、子の代では北条義時と三浦義村が、それぞれ強い絆で結びついている描写がありましたね。大河では毎回、北条の屋敷や伊東祐親の屋敷で共にいる描写がありましたが、彼らは隣近所に住んでいる、というわけではありません。

北条の地であった静岡県伊豆の国市の辺りから、三浦の地、衣笠(現・横須賀市)までは相模湾をはさんで、直線距離で70キロ、陸路でなら100キロはあります。

図は関東の勢力を表したもの。石橋山の戦いの頃からの味方の豪族は赤字、平氏方の豪族は青字、後に味方となる者はピンク、紫で表記しています。

関東 勢力図

 

8月22日、三浦氏は戦の支度をし、500騎を引き連れ本拠・衣笠城を出たものの、酒匂川の増水で前途を阻まれていました。そこで頼朝は、自ら鎌倉へ、つまり三浦の軍勢の方角へ向かおうとします。
これに対し大庭景親は、相模・武蔵の平氏方を糾合、3,000騎で頼朝の前に立ちふさがります。それがちょうど、土肥の領内、石橋山の辺りでした。頼朝の背後には、怒れる”じさま”こと伊東祐親が300騎で迫っていました。

頼朝方は前後を挟まれたかたちです。彼らは石橋山で陣をしきました。『吾妻鏡』では、8月23日のことです。

石橋山の戦い 経過図

 

23日の黄昏時、三浦の者が大庭景親の一党の家屋に火を放ちます。石橋山に陣をしいた大庭景親にとっては背後で屋敷が焼かれたかたちです。
その煙が、大庭景親に三浦氏が頼朝方であることを知らせました。さらに、頼朝と三浦氏が合流する前に合戦を仕掛けられてしまうきっかけに、なったのです。

その夜のうちに、戦いは始まります。頼朝方は、300騎。武士たちが勇敢に戦ってもやはり、無理があります。24日の明け方には、杉山(湯河原町付近)へと逃げます。

じりじりと、山の後方の峰へと追われるなか、北条父子(時政・宗時・義時)は頼朝とはぐれます。
そして、頼朝に追いついた武士たちも、あえて分散して山に隠れ、この場をやり過ごそうとしました。

 

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宗時、討ち死に

この石橋山では多くの味方の武士を失います。中でも、北条時政の嫡男・宗時の死は大きな痛手だったでしょう。彼は時政・義時とも、別行動をしたと記されます。
『吾妻鏡』では

「同三郎(宗時)は土肥山から桑名へと降り、平井郷を通っていたところ、早河の辺りで(伊東)祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重によって射取られた。」

とされます。

もし、史実において、時政が宗時と義時を分散させて逃げる道を探ったのだとしたら、時政の判断は正しいものだったと言えます。北条氏は嫡男宗時を失いますが、義時は生き残ったのですから。

記録の少ない北条宗時。実際はどのような武士だったのかは、謎に包まれています。大河ドラマでは、熱血漢で、人の話は聞かず、義時を振り回してばかりいました。記録がない分、三谷さんによって生き生きと創られた、愛すべき人物像でしょう。

第5話で三谷さん、この宗時に大きな仕掛けをしていましたね。彼が愚直なまでの熱血漢として振る舞っていたのは、ひとつの大願のためでした。それは、都の平家による圧政を終わらせること。関東の武士たちが立ち上がることでした。

「坂東武者の世を作る。そして、そのてっぺんに北条が立つ。そのために源氏の力が要るんだ。頼朝の力がどうしてもな」

彼にとっては完全に、頼朝は神輿でした。三谷さんの宗時は彼を旗印に、関東の武士が立ち上がり、やがて関東が支配をもぎ取ることを視野に動いていたのです。トラブルメーカーとばかり見えていた彼の行動を見返すと、常に頼朝が挙兵したくなるように、挙兵せざるをえなくなるように、仕向けていましたよね。

平家の支配に不満を持つものが多くいたことは、その後頼朝の挙兵に呼応した者の多さに明らかです。三年もの長さの大番役を自費で務めるよう求める平家。税は取るのに、土地の争いには助けを出さず、飢饉の中にあっても私腹を肥やすだけの平家。

三谷さんはこうした状況を打開しようとまず動いた人物を、宗時としたのですね。記録が少ない宗時に、熱い血と情熱を吹き込んだ脚本、さすがです。

北条宗時

 

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敗走、別行動をとったわけ

土肥実平の機転

この敗走の時、頼朝の傍で彼を護衛し、皆に分散して逃げることを提案したのは土肥実平でした。

「おのおの無事に参上したのは喜ばしいことではありますが、これだけの人数を引率されてはこの山に隠れるのはきっと難しいでしょう。御身だけは、たとえどれほどの時間がかかっても実平が計略をめぐらして隠し通しましょう」

山の中で頼朝を庇い、少人数なら隠れられる、と判断した土肥実平。確かに彼の機転はすばらしいものでした。しかも、この辺りの領主である彼は、地形や道にも通じています。船を手配する家人もいました。共に逃げたいという武士たちをいさめ、しっかりと頼朝を逃がすことに成功しました。

土肥実平

北条時政のとった動きはなんとも不可思議

このとき北条時政も『吾妻鏡』では頼朝と共に逃げる道をとりませんでした。しかし彼は土肥実平に説得された訳ではありません。しかも、山中で合流しようと思えばできた機会は二度ほどあったようです。一度は頼朝の元へ来ますが、また別行動をとり、結局頼朝より早く、船での脱出もしています。

『吾妻鏡』では「頼朝が生きていないならあなたも(時政も)生きていないでしょう」などと、箱根山の永実に言わせ大笑したとありますが、これも、忠誠をとってつけたエピソードのよう。
『吾妻鏡』は後の時代に北条氏によって編纂された書物です。北条氏の都合の良いように、加筆されたのかもしれませんね。

彼は、他の武士たちとは違った視点で別行動を選んでいたように思います。

この段階で、頼朝と共にいて捕まっては、一家の断絶にもなり得ます。もちろん、旗揚げから共にいるのですから、源氏が完全に敗北すれば後々罰せられるでしょうが、別行動で逃げきれば一家断絶までにはならない可能性もありました。あるいは、頼朝を売ることすら、時政の選択肢にあったかもしれません。

時政は、敗戦の将・頼朝とともにいることのリスクを計算して、このような別行動をとっていたようにも読めるのです。

大河ドラマでは、お人よしで、でも「一度決めたら、お守りいたす!」なんて言ってしまう愛すべき人物として描かれますが、資料を読む限りでは私は彼はこの当初から、計算高い人物だったと、思っています。
大河ドラマでも、その人当たりの良ささえ、交渉術の一つでしかないのではないか、という腹黒い面が、後々顔を出すでしょうか。それもぜひ、見てみたいです。

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合流したかったのに

 

三浦氏の動き

三浦義澄・三浦義村

さて、そのとき三浦氏の動きはどうなっていたのか。
22日、三浦氏は衣笠を出発し、23日の夜酒匂川の辺りを宿とし、郎党に大庭の屋敷を焼かせました。ここまでは上記の通りです。
大庭景親の屋敷を焼いたのは、自分たちがが頼朝方である、という宣戦布告に近い意味合いだったのでしょう。しかし、『吾妻鏡』の描写を信じるなら、相手方の攻撃がこれによって早まってしまっていますね。

24日の朝、三浦氏は合戦すでに敗北と知ります。300騎しかいない頼朝方は、3000騎の大庭景親と300騎の伊東祐親に挟まれていたのですから、それはそうでしょう。
これを知った、三浦氏は急ぎ引き返します。頼朝の安否も分からず、とりあえず三浦の領地まで戻ろうとしたのですね。途中、この時はまだ平家方だった武蔵国の武士・畠山重忠と戦い、一旦は畠山が引いています。三浦氏は笠井城へと戻りました。

26日、畠山重忠は、再び三浦を攻める準備をします。同じ武蔵国から河越重頼、江戸重長が加わりました。三浦氏はこれを知り、衣笠城にて陣を張ります。
彼らは連日の移動や戦の疲れもあったのでしょう、夜になると城を捨て、逃げることにしたようです。

三浦義澄の父・三浦義明は残りました。三浦義村にとっては祖父ですね。「私は一人この城に残り、軍勢が多くいるように(河越)重頼に見せてやろう」と言ったと記されています。翌27日、河越重頼、江戸重長らに三浦義明討はたれました。

27日、大庭景親は三浦氏を攻めるため衣笠に来ますが、すでに義澄たちはいませんでした。

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強運で逃げ切る、頼朝

さて、肝心の頼朝です。

『吾妻鏡』の記述では、途中大庭方であった梶原景時に助けられたり(『吾妻鏡』治承4年8月24日の条)、箱根山の別当行実の弟・永実に匿われたりしつつ、28日、頼朝は土肥の真鶴岬から船に乗り、29日安房の国(千葉県南部)猟島へ到着しました。

北条時政・義時は27日、土肥の岩浦から船に乗り安房へ着いていました。三浦義澄・義村は衣笠からやはり安房へ着いています。

ここでやっと、合流ができたのです。開戦が17日の山木館襲撃とするなら、12日間も、後のことでした。

 

 

図では、8月17日から29日、頼朝の進んだ経路を赤い実線、三浦勢の経路を赤い点線であらわしています。

敗走する中、目と鼻の先ほどまで、迫っていた大庭勢。よく、逃げ切れたものです。梶原景時が、頼朝に気づいていながら見逃した、その動機も気になりますよね。後に、鎌倉幕府で重用される彼。このような恩があったと、後付けされたエピソードかもしれませんが。どうやらこの、”強運”という言葉、ドラマでもキーワードになりそうです。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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