【鎌倉殿の13人】 質実剛健かつ策士。頼朝の遺志を継いだ武士【北条義時】

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北条義時 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

鎌倉幕府の二代目執権、北条義時。大河「鎌倉殿の13人」では、小栗旬さんが主人公として演じます。北条政子の弟で、三谷幸喜さんの例えでいえば、北条政子が「サザエさん」義時は「カツオくん」。義時は時流が合致しなければ、ただ関東の一武士に過ぎませんでした。時流と彼の才覚はピタリと合致。姉・政子というカリスマも、常に義時の味方でした。女だからと姉を排除せず、最大限のサポートをしたことで、最大の味方を得たのです。

基本情報

北条‫義時 1163年~1224年

頼朝挙兵の時から、付き従い頼朝に信頼される。鎌倉殿の13人の一人。

姉と共に、北条氏を政権くのトップへ押し上げる。

承久の乱で朝敵となるも、勝利。頼朝が築いた鎌倉幕府の基礎を盤石にする。北条氏が執権として幕府の実権を握る、という流れを築く。

父 北条時政 姉 北条政子
正室 姫の前
側室 阿波局(兄弟にも阿波局という人がいる)
継室 伊賀の方
子 泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、一条実雅室

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父に学んだ策謀と頼朝に学んだ政治手腕

父に学んだ人心掌握術・交渉術

時政は在庁官人としても、3年間の大番役(京都の警備役で、自費で任務)としても、その交渉術と、面倒見の良さで人脈を築いた人でした。北条の領地の財力はそれだけゆとりがあり、時政は使いどころを熟知していたのです。

時政は頼朝と娘政子の婚姻を認め、挙兵に際しても全面的に頼朝を支援しました。京の動静にも詳しく、平氏打倒の気運がくることに賭けたのでしょう。
1180年の挙兵後は、頼朝の命で甲斐の武田の説得に義時と共に向かい、交渉を成功させています。この時、時政41歳、義時16歳。父の手腕を間近に見たことでしょう。そのまま、甲斐の軍勢と富士川の戦いに赴き、勝利しています。

ただ、父、時政は頼朝に、完全に服従していた訳ではないようです。作戦に意見したり、頼朝の浮気の騒動には郎党を連れ鎌倉を出るなど、異を唱えることもありました。一御家人としてではなく、頼朝の義父として、北条の総領として(その立場は頼朝の義父だから実現したのですが)接していたのでしょう。

頼朝の方でも、時政を完全に信頼していたわけではないようで、京都守護以外では、重要なポストを与えませんでした。

頼朝に学んだ政治手腕

そんな父時政に対し、義時は、頼朝に全面的に服従し、誠心誠意、付き従ったようです。1181年頃、鎌倉に伊豆武士団が着々と屋敷を建てた時、頼朝の大蔵御所から離れた名越に居を構えた父時政に対し、義時は御所に近い小町に居を構えています。亀の前事件の際、時政が怒って鎌倉を離れても、義時は残り、頼朝に忠義を褒められています。

1181年4月、頼朝が身辺警護のため、主だった御家人のうち若者11人を指名したときも、義時は選ばれています。

1183年~85年、源平合戦では、西国遠征に従軍、多くの東国武士たちと苦難を共にしました。

「江間は家ノ子の専一」と頼朝に信頼されたのも頷けます。(義時は御家人の一番、の意)

父、時政が(義時と政子によって)失脚した後、義時は家督を継ぎ、執権に就任。三代将軍実朝は温和で、義時を叔父として遇し、将軍と執権との間も上手くいったようです。

義時の政治の基調は東国武士政権の安定強化。多くの苦難を共にして、御家人たちからの支持も得ていました。

駿河以西の東海道の宿駅に昼夜の別なく御家人を交代で常駐させ、旅人の安全を守ろうとしたり、諸国の守護・地頭に命じて諸街道に宿駅を建てさせたりしました。武家の首都としての鎌倉の整備、地頭御家人の権益保全など、義時の政治は頼朝によく似ていたようです。

頼朝との違いは、義時は京都への妥協に乏しかった、という点のようです。より、東国の自主性を望んだのでしょう。

策士としての一面

義時の活躍は、父の失脚後、執権になってからが目立ちますが、それ以前から着々と足元を固めていました。交渉や政治を学び、西国遠征に従軍、多くの東国武士たちと苦難を共にしたことは、後の執権政治の基盤を築きました。また、若いころから父に唯々諾々と従うのではなく、別の立場や意見、行動を示したことで、御家人たちからの反発は少なかったようです。

頼朝の死後、北条の力の強化を図る、父の動きには概ね同調。「牧の方事件」で父が暴走を始めたと判断すると、制圧。親族であっても、冷静でドライな対応をみせます。ここには、政子との協調関係が常にあったことも、面白い点です。政子の政治能力・意見をかなり、信用していたようです。また鎌倉の象徴「尼将軍」としての政子の価値を熟知していた、ということでもあるでしょう。

父の失脚後の和田合戦でも、きちんと北条の利益を拡大。まるで図ったようです。

1213年 和田合戦

和田義盛は頼朝の挙兵当時から従った腹心。初代侍所別当。源平合戦、奥州合戦で武功があります。鎌倉殿の13人の宿老の一人。

和田合戦は、泉親衡(いずみちかひら)らが頼家の遺児、千手丸を擁立しようとし、捕らえられた事件に端を発します。
捕らえられた者のなかに、和田義盛の子と甥がおり、和田義盛は三代将軍実朝に赦免をこいました。子は許されますが、甥は許されず、さらに義時による挑発行為を受け、和田義盛が挙兵。同族の三浦氏は和田義盛を裏切り、義時に全て伝えており、和田義盛は敗れました。

この戦で義時が得た成果は以下の通りです。

大豪族三浦氏の勢力を二分、一方を打倒。(和田氏は元々三浦一族)
和田義盛の職だった侍所別当に、義時が就任。→幕府の三官位のうち、政所・侍所を義時が合わせもつ。

これは、北条氏としての族滅事件の数々に連なる、御家人の統制、北条家の強化の戦いであった可能性が高そうです。
義時もまた、父時政に劣らず策士であったのでしょう。虎視眈々と勢力を溜める手腕は、見事です。

実朝暗殺、黒幕説

二代将軍頼家を失脚させ、死に追いやったのは明らかに、北条時政・義時だったでしょう。頼家の死は「愚管抄」「増鏡」によると義時の手勢による暗殺です。これは、他の宿老たちも半ば公認で行われた行為でした。

頼家は独裁、また近しい者たちだけの親政を推し進めようとする余り、東国武士の勢力図を読めず、父頼朝ほどのカリスマ性や統率力もなく、引きずりおろされたのです。頼家が死ぬ前に、三代将軍実朝の就任を朝廷に認めさせるなど、北条氏による準備も万端でした。

しかし、三代将軍実朝のときはどうでしょう。

実朝は朝廷よりの将軍とはいえ、穏やかで、義時ともうまくいっていたのです。頼朝の子である実朝に将軍の座にいてもらうことで、御家人たちの納得も得られていました。
実朝がいるなら、と後鳥羽上皇は将軍後継の皇子の下向にも同意していました。このタイミングで義時が実朝を排除する必要はありません。そして頼家のときとは打って変わって、将軍の後継選びは難航しています。

この、実朝暗殺については、やはり、頼家の子、公暁によるものだったのでしょう。

いかに策士とはいえ、また二代将軍頼家の失脚、暗殺に関係していたとはいえ、実朝暗殺が、義時による陰謀であったとするのは、乱暴なようです。

天皇家の敵となっても、離れなかった御家人

1221年の承久の乱は、政権を朝廷に取り戻したい後鳥羽上皇が、北条義時を朝敵として院宣を出したことで勃発しました。頼朝の直系が将軍であった時には押し進めなかった計画ですが、鎌倉幕府の実権が北条氏となったことで、朝廷は動き出しました。武家政権を倒し、再び朝廷の復権を図ったのです。

朝敵となることの危険性は非常に高いものでした。天皇家に対する畏怖の念、朝廷をトップにしたヒエラルキーの指向はとても強かったのです。
しかし、御家人たちは義時から離れず、総勢19万騎が京へ出撃する積極策に参加しました。

義時の行ってきた政策・施策が彼らの安全や利益を守っていたことが、功を奏したのです。そして、何よりうまかったのが、「尼将軍」政子に御家人への説得を任せたことでした。

あの有名な大演説です。頼朝以来、関東の武士に与えられた土地や、安全。朝廷による労役を縮めたこと。それを思い出すよう、政子は訴えました。その恩に報いるよう、御家人たちを鼓舞したのです。さらに、天皇や上皇は、近臣に欺かれている、その欺いた者を討伐するのだと、政子は続けました。直接、天皇家を批判しないことで、御家人たちが戦いやすい、大義名分を与えたのです。

実際、労役は縮まり、武士の地位も、その長が従二位、征夷大将軍となり鎌倉幕府という権力を築くほどに上がりました。頼朝や北条義時が、武士団の意見をまとめ上げ、東国を運営してきたことは、御家人のほとんどが、認めていたのでしょう。

そして、自分が演説するのではなく、頼朝の後家、「尼将軍」政子のカリスマ性に賭けた、義時。

果たして、その効果は抜群でした。

幕府の積極的な進軍を想定していなかった朝廷。慌てて途中で迎撃に出ますが随所で撃破されます。幕府軍は、上皇が倒幕を令してから一か月後には、京都になだれ込みました。大勝利を果たしたのです。

乱の後、後鳥羽上皇は隠岐島へ配流。六波羅探題が朝廷の監視をするようになり、荘園の支配権も朝廷から幕府へと移ります。
この承久の乱の結果、朝廷と幕府の力関係は逆転したのです。

義時の最期 ずっと味方だった政子

後妻、伊賀の方に毒殺された?

義時は1224年、62歳で亡くなりました。どうやら、これが、後妻伊賀の方の毒殺だったのではないかと、示唆されている書物があります。
藤原定家の「明月記」です。義時と伊賀の方の娘が嫁した一条実雅。その弟が承久の乱の戦後処理で捕らえられたとき、義時が妻に与えられた薬で死んだと、言及しています。

伊賀の方は実家の兄弟、伊賀光宗・朝行・光重らと図り、自身と義時の子、政村を執権に、さらに娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとしていたようです。そして、武力として、政村の烏帽子親の三浦義村を恃んだのです。
義時の嫡男、泰時は伊賀氏の陰謀を察知しており、北条家督と執権を継ぐことをためらったようです。この時も政子が動きました。深夜、三浦館を訪れ、義村を説得。そして、三浦義村小山朝政結城朝光など宿老を泰時館に呼び集め、その眼前に幼い四代目将軍頼経を抱いて現れると、泰時を執権と認めることを誓わせたのです。

これで、事態はは決着。伊賀氏は失脚し、泰時は時政、義時に続き、北条氏が就いてきた執権に就くことになりました。

政子にとっては、共に闘った弟、義時。その後継問題までを、政子は見届けることになったのです。
義時と政子の目指した、東国の地位向上、東国武士政権の安定強化。二人は大きな志を共有して、最後まで戦い抜きました。

いかがでしたでしょうか。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献 「鎌倉北条氏河氏の興亡」奥富敬之著 吉川弘文館

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