【鎌倉殿の13人】北条義時・三浦義村、盟友二人の活躍と暗躍

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三浦義村 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

大河『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時の活躍は源平の合戦の後、主君頼朝が没してからの方がメインでしょう。質実剛健な姿、頼朝の忠臣という姿だけが義時の本質ではありません。彼は、将軍という存在をただの象徴とし、実質の政権奪取に成功します。北条義時は政局を見抜き、策謀を廻らせ、自らが関東武士団の長となっていったのです。この時、常にその背後にあったのは、三浦義村の姿でした。彼は藤原定家の『明月記』に、「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と評されました。数々の策謀、あるいは事件の折りに重要な立ち回りをみせた、三浦義村

ここでは、具体的に、義村の関わった事件を挙げながら、彼の動きを追ってみましょう。

 

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陰謀にことごとく関係した三浦義村

 

梶原景時の変

梶原景時の変は、1199年11月 ~1200年2月にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件です。頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件でした。

この梶原景時の変は、そもそも北条時政・義時が仕組んだ、陰謀だという説に則って考えると分かり安くなります。

二代将軍、頼家は北条氏の意のままにならない将軍でした。頼家の乳母、妻となったのは比企氏の人間です。そして梶原景時も頼家に忠実な側近となろうとしていました。その頼家の権力を削ぐため、梶原景時は陥れられたのでしょう。

北条方が後に編纂した「吾妻鏡」によると

梶原景時の讒訴により窮地に立たされた結城朝光は義村に相談。義村は和田義盛、安達盛長と相談の上、景時を排除することを決断、有力御家人66人が連署した「景時糾弾訴状」を頼家の側近・大江広元に提出。景時を惜しむ広元は当初は躊躇するも、最終的には頼家に言上。これにより景時は失脚して所領の相模国一ノ宮の館に退いた

『吾妻鏡』のこの件に関する記述は、北条氏に都合の良いように書き換えられたシナリオ、ということになります。実際は、九条兼実の『玉葉』にあるように、北条氏が実朝擁立を企て、それに気づいた梶原景時を追い落とした、といったところでしょう。

しかし、表向きの記録『吾妻鏡』でさえ結城朝光がまず、義村に相談するくだりなどからは、北条氏にとって、義村が影のように共にあり、情報を伝えた様子が伺えますよね。

畠山重忠の乱

この時代に於いても、後の歌舞伎全盛の時代に於いても人気の高い畠山重忠。忠義の人、実直な武将として、数々の記録に残ります。1205年、彼は北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされました。この事件も北条氏による有力御家人排斥の一つです。

北条時政の後妻・牧の方の娘婿・平賀朝雅の讒訴により畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いが浮上。牧の方に甘い時政は2人を成敗することを決断。

討伐軍は北条義時が率い、三浦義村も参加しました。しかし、謀反はそもそもでっちあげでした。『吾妻鏡』では義時は父・時政に対し重忠討伐を反対し、やむなく討ったことになっています。そして翌23日夕刻、討伐軍にも加わっていた重忠の同族の武将らが重忠を陥れた首謀者として義村らによって誅殺されました。

このあたりの経緯は、『吾妻鏡』から読み取れるもの。やはり、北条義時に都合の良いシナリオでしょう。北条義時は武蔵国を手中におさめるための策謀を完遂し、人気の高かった武将を討った攻めは、父・時政の判断であったとし、後に父・時政を処断することでかわしています。

ここでも、三浦義村は義時と連携した動きが、読み取れますね。

和田合戦

この事件もやはり、北条義時による策謀の一つでしょう。三浦義村にとっては同族の、和田義盛を滅亡させる、という闇の深い事件です。

1213年、泉親衡の謀反に和田義盛の子息と甥が関係したことが分かります。義盛は赦免を願うも、甥は許されず流罪、さらに慣例に反して甥の屋敷も奪われました。これは北条義時の挑発です。そのため北条氏と和田氏の関係は悪化。義盛は親族である三浦一族など多数の味方を得て打倒北条の決起を決めます。三浦義村も親族として参加していました。しかし義村は直前で裏切って義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付きます。戦いは義時が将軍実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡しました。

親族である、義盛さえも、義村は切り捨てたこととなります。そしてこの後、北条義時は和田義盛の地位を手にしています。

実朝暗殺

源氏三代目の将軍が絶えた、この事件は有名ですね。

 

1219年1月27日、将軍実朝が公暁(実朝の兄である2代将軍源頼家の子)に暗殺された。公暁は義村に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を持った使いを出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽って討手を差し向けた。待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとした所を殺害された。

公暁の乳母は義村の妻であり、子の駒若丸は公暁の門弟であるなど義村との縁が深い事から、事件は公暁をそそのかして実朝と義時を同時に葬ろうとした義村が黒幕であるとする説もあるが、義時が公暁を裏で操ったという説や、将軍親裁を強め後鳥羽上皇との連携を目指した実朝を義時と義村が手を結んで排除したとする説、幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説もあり、またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解もあって、真相は明らかではない。

義村は公暁討伐の功により、同年駿河守に任官した。 (ウィキペディアより)

実朝は穏やかな将軍であり、北条義時のことも、叔父として遇したといいます。彼の暗殺の後、次期将軍を巡っては、頼家失脚の折りより段取りも取れていません。これらのことから、さすがに、実朝暗殺は北条義時の策謀ではないのではなか、と以前の記事では書きました。

しかし、ここまでの、北条義時・三浦義村の動きを挙げてみると、さらに次の承久の乱に際しての動きを考え合わせると『将軍親裁を強め後鳥羽上皇との連携を目指した実朝を義時と義村が手を結んで排除したとする説』が、一番納得できてしまうのです。

 

承久の乱に際して

1221年の承久の乱では、(三浦義村は)検非違使として在京していた弟の胤義から決起をうながす書状を受けとるものの、義村は使者を追い返した上で義時の元に向い「平判官胤義ガ今年三年京住シテ下タル状御覧ゼヨ」と事を義時に通報するという行動に出る

 

乱終息後の戦後処理でも義村は活躍した。(略)後鳥羽上皇の後裔のことごとくを配流・出家・臣籍降下させてその系統による皇位の継承を認めない方針をとった。

この、承久の乱に際しての三浦義村の対応は、まさに、関東武士としての大義を現したものだったといえるでしょう。

この承久の乱、頼朝による源平合戦と本質的にかなり似ている戦いです。「土地」という概念で考えるとどちらも「中央(平氏あるいは朝廷)による支配vs地方による自治」という形の争いでした。

この局面で、朝廷側についてしまっては、何のために、数々の策謀を廻らせてまで北条義時に権力を集中させてきたか、分からなくなってしまいます。北条義時はすでに、源氏の血縁でなくとも鎌倉を代表する者として認められつつありました。三浦義村は、武力だけでなく知略にも富んだ北条義時に、関東の自治を託すため陰になり日向になり、共闘していたのではないでしょうか。

 

北条義時の忠実な影?!

以上、ほとんどが、吾妻鏡による義村の伝承です。これらをみていくと、北条氏が起こした策謀・事件にことごこく義村が関係していたことがうかがえますね。北条義時にとってさえ、足元をすくわれかねない、知略の人だったと捉える人もいます。しかし、北条義時が勢力を拡大し、関東を治めていくに当たって、彼の行動はむしろ義時を陰から支えるものだったように見えませんか。

特に、承久の乱に於いての、義村の対応が彼の人生のテーマを言い当てているように思います。彼が死守したのは”関東の自治”。それは、関東の武士たちが、なぜ鎌倉幕府のもとに集ったかを、示します。そもそも源平の戦いが、彼らにとって、自分たちの土地を守るためだったことを、北条義時、三浦義村は、生涯忘れなかったのでしょう。大局にあって、親族の情も捨て、枝葉の思念や朝敵となる怖れに惑うことのなかった二人は、正にまたとない盟友だったといえるのではないでしょうか。

その後

1225年夏には大広元・北条政子が相次いで死去する。同年12月に執権・北条泰時の元、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任した。幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では北条氏に次ぐ地位となっている。

1232年の御成敗式目の制定にも署名した(名義は「前駿河守平朝臣義村」)。4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子の泰村と共に近しく仕えた。そんな中、義村は1238年には鎌倉下向以来、初めてとなる上洛の途に就いた頼経の先陣を勤めている。随兵36人を従えての先陣だった。この上洛に随兵を従えて加わったのは御後に列した泰時・時房と義村のみであり(略)。

1239年、死去。

以前の記事で紹介した家系図にも分かるように、北条義時と三浦義村の子孫は関東の長となっていきます。東国武士として、関東の土地を守り抜くことに、その知略と生涯の全てをかけた二人だったのではないでしょうか。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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