【井上章一「京都嫌い」】京都を斜めに読み解く【舞妓を支える、お坊さん?】

京都嫌い 本を片手に京都をめぐる

 

皆さま、住んでいる地域、出身の地域に誇りや親しみをもっていますか?特に関西圏に住んでカルチャーショックだったことの一つ。皆さん、地元愛がすごいのです。大阪は人情を、神戸はハイカラなお洒落感を、自分の街の誇りとしてもっています。京都は、もちろん、日本の都であった1200年の伝統を誇りとしています。その誇りとプライドからか、京都は、いけずな人がいる、排他的である、お高くとまっている、そんなイメージもありますよね。

この本の著者の地元愛は少し屈折しているようです。どうやら、出身の嵐山を、京都市内の知人・友人から京都ではない、と言われたことを忘れられずに、書いてしまったエッセイが「京都嫌い」です。本作はそんな出発点ながら、京都を多角的に楽しめる一冊です。

 

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嵐山は京都にあらず?

「京都」継ぐ人の誇り、そしてプレッシャー

京都が伝統を誇る、そのことは、その伝統を守らなければならないという、重圧を背負ってきたということも意味します。
自分がやりたいことが優先される今日の価値観は歴史的にみれば最近の事。京都では、平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治の時代のことも昨日のことのように会話に上る、などと浅野次郎さんの小説の中で書かれています。それほどに、長い年月の間、守ってきたお祭り・しきたり・家業、そういったものを背負っている、と言うことができるのかもしれません。

例えば、下賀茂・上賀茂神社にまつわる一族。長い長い伝統は、絶えることなく続いてきました。今でも、乗馬の技術を磨き、祭りの詳細の手順を語り継いで、一族で取り組んでいます。

天皇家にまつわる行事、日本全土の天下安寧を願う神社や寺の行事、もうすこし規模を小さくして、自分の家の敷地にある祠の祭事といったもの。そういったものは、自由に、ある年から辞めるという訳にもいきません。多くの人たちがその伝統を続けるために多くの月日と、労力、命までを捧げてきた歴史は、東京出自の自分にははかり知れません。

どこそこの家は、お祭りにいくらか資金を出したとか、人手を出したとか。どこそこのお家は、去年は協力しなかったとか、そういったしがらみも、何代にもわたって、熟成し、感情の澱となっていることも考えられますよね。

京都の人が「他所と内」を分けるのは、その背負うものの重みを理解する人、しない人を隔てるためかもしれませんね。作者は、嵯峨・嵐山の大覚寺周辺で、幼少期を過ごしています。
京都市内の人間に、京都ではない、と言われ腹を立てている作者。もちろん、我々から見れば、嵯峨も立派な京都の一角、なのですが。

この、「京都嫌い」の作者が挙げた、京都の人のもの言いのエピソード。いくつかありますが、作者は相当煮え湯を飲むような思いをしたよう。しかし、角度を変えればそこには、守るもの・継ぐものが特になく、いつでも居所を変えられる者に対する、居所を変えられず、守るものが選ばざるうちにあった者のかすかな羨望が隠れているのかも、とも感じます。

自由への羨望を、誇りや矜持に変えて、納得して守り伝えてきた歴史が、その人たちの中にはあるのかもしれません。嵐山ですら、なまっている、と「他所」認定したという京都市内の作者の知人。嫌みを言わねば収まらないほどの、重圧の中にあったかもしれませんよ、と作者に言ってみたら、納得してもらえるでしょうか?「そないなこと、あらへん」と一蹴されるでしょうか。

渡月橋

渡月橋

さて、このような「京都嫌い」な作者ですから、このエッセイでは京都のトピックをを様々な角度から斜め読み、考察させてくれます。特に私が興味をもったのは、お寺というものが、歴史上果たしてきた役割について。その辺りを少しご紹介します。

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斜め読みしたお寺の歴史

軍事を伴う勢力としての寺

以前の、比叡山延暦寺を紹介する記事にも書きましたが、秀吉以前のお寺は、軍事集団でもありました。喜捨や支援を求めて僧兵が暴れるさまを描いた書物も多数ありますね。

比叡山延暦寺の記事「僧兵が暴れた歴史も 日本仏教の母山」

宿所としての寺

作者は、京都の寺には、宿所としての役割があった、としています。

「寺に寝泊まりする武将たちのいたことがわかるのは、南北朝の騒乱期あたりから。武人の宿泊に、寺が境内の施設を提供する話は、室町以降の記録によく見かける。一四、五世紀ごろから京都の寺は今でいうホテル業をいとなみだしたようである。」

本能寺の変のとき、信長も、本能寺に宿をとっていましたね。さらに、作者はこのことが、京都の庭造りにも活かされた、としています。日本庭園史では、作庭は禅との関わりが言及され、通説となっていますが、作者は、もっと世俗的・現実的動機として、武将らへの「おもてなし」の一環で、作庭が始まった、と考えているようです。さらに、精進料理の進化も挙げています。確かに、修行僧が食べるためならば、”肉・魚ののような食感”や”目や舌を楽しませる工夫”はそう必要なかったでしょう。

信長に比叡山が焼かれ、秀吉の刀狩で勢力を削がれた後も、各寺のこうした「おもてなし」的経営は、続いたと考えられます。

天龍寺庭園

天龍寺 庭園

天龍寺 庭園 紅葉

天龍寺庭園 紅葉

総本山としての寺

現在の京都の多くの神社やお寺の建物は、江戸時代に再建されています。江戸の3代将軍までに、建築されたのですね。日本の首都としての機能は関東に移りましたが、朝廷と各寺の総本山の多くは、京都にありました。そして、江戸幕府は、総本山である寺に、財源確保のシステムも与えました。京都の各本山は全国の末社から、巨額の浄財を集めていたのです。
これは、幕末まで保たれたシステムだったようです。そのため、寺は、建物や庭の保全にかけられる財源を確保できました。このことは、京都に、優秀な大工、左官、建具師、庭師を育てる要因となりました。大々的に、幕府が指揮を執る工事が減っても、財源があれば寺の保全が可能でした。職人にとっても、絶えず仕事があり、腕を磨くことができる環境だったはずです。

文化の継承や、後に書く景観保全の役割は、こうした大きな財源を背景に、果たされたのでしょう。

観光地としての寺

近代の京都のお寺の財源は、拝観料!

しかし、明治になると、この状況は一転。浄財集めもできず、寺地も没収される状況に陥ります。建物や庭のメンテナンスには、なかなか経費がまわせない状態となったのです。一時期は、整備の行き届かない寺も増えたようです。そこで、各寺が考え出したのが、拝観料をとること、だったようです。観光地として、再び「おもてなし」を前面に押し出したわけです。

「私の実感では、1970年代あたりから、様子がかわってきたように思う。(略)けっきょく、拝観料をとりだしたことが、事態をかえたのだろう。」

このことが、建物や庭の維持や再生につながっていることは、いなめない、としながらも、これが非課税とされることには、わだかまりを感じているようです。

この、拝観料に税をかけては?という、動きは京都市側も何度か取り組もうとしたようです。本書の『「古都税」闘争』の章に詳しくありますが、1950年代、60年代には「文化観光施設税」として実施され、寺社側も従ったようです。が、1980年代「古都保存協力税」は、有力寺院が拝観停止に踏み切ってまで、応じませんでした。拝観停止は、寺社だけが困るわけではありません。悪く言えば、観光産業に携わる市民まで、人質にとった形でした。この流れで、京都市側は、1988年、古都税を廃止しています。

 

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京都のお寺が担ってきた役割

では、大規模な総本山として京都のお寺が担ってきた役割とは、どういったものだったのでしょう。作者の指摘した二つをあげてみます。

山林、景観の管理

明治維新のころ、政府は、京都の寺地を広く没収しています。街中では、南禅寺、清水寺、建仁寺など。清水寺などは、寺地を十分の一以下に狭められたそう。さらに、山を有した寺もその寺地を没収されました。
嵯峨・嵐山といえば天龍寺。今はモンキーパークがある嵐山も、人手調査で必ず挙げられる渡月橋も、かつては天龍寺の敷地でした。

「明治維新で上地を余儀なくされた天龍寺は、嵐山の保全にかかわれなくなった。そのため、絶景で知られた嵐山は、何年もまたずに、景色がくずれだす。手入れをおこたったせいで、荒山としか言いようのない山になってしまったのである。」
「鞍馬寺も、明治の上地で鞍馬山をうしなった。そして、ここでも山の景観は、たちどころにくずされていったという。山の材木を収入の糧としてきた江戸期の鞍馬寺は、おのずと景観保全にもつとめてきた。」

山並みの景観保全に、寺が一定の役割をもっていた、というのは頷けます。

花街のスポンサー?!

イラスト 舞妓

日本中の花街文化が下火な昨今でも、京都の花街は、まだ若い芸子さん、舞妓さんが見られます。彼らにまつわる、お着物やお道具の産業も生き残っています。一昔前、京都の花街を賑わせていたのは、呉服関係の商人、映画界の人たちでした。しかし、和服を始め繊維産業が下火となり、映画界も衰退、伝説的エピソードが残るだけとなってゆきます。

では、花街は誰が支えているのでしょう。ここで作者は、お坊さんをあげています。作者自身がみた、お坊さんと芸子の様子、さらにはお坊さんとの会話で明かされる豪遊について、本書では触れられています。清廉潔白でない行状を少しでも擁護しようと、面白おかしく理屈をこねてあげる下りなど、作者の愛情も感じつつ読めますよ。

確かに、現状でお茶屋遊びができるのは、ごく一部の経営の上手くいっているご商売の人以外、思い浮かびません。そうした人は数も多くはないでしょう。産業として興隆を極めている分野、というものは不景気に慣れた私の目では分かりません。しかし、京都の大きなお寺さんの人間であれば、あるいは安定的に花街を支えられる力を持っていそうですよね。

しかし、作者がこれを出版したのは2015年、エピソード自体はさらに四半世紀前、と書いていますので、1990年頃までの情報、と思った方がよさそうです。まだ、世の中はバブル崩壊直前で、コロナなどはない時期の花街です。

坊主と姫、などと作者は表現していますが、それはそれで、日本らしくて面白い光景なのではないでしょうか。歴史上で、清廉潔白でない僧は山ほどいますし、そんな僧が歴史を動かしたりもしています。
コロナ禍にあっては、感染対策さえできていれば、お坊さんの闊歩する花街でもよいから、文化の継承が途切れませんように、とさえ思ってしまいます。

 

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「京都市財政破綻」批判的分析こそ打開へのヒント?!

本書が出版された当初には、まだ表面化していなかった問題についても、考察してみます。本書に書かれているわけではありませんが本書にあるような視点で、この京都市財政難についても分析できると、再生のヒントも見つかるかもしれないと思うのです。

2021年、財政破綻の可能性を京都市が公表しました。コロナ以前から、財政の悪化はちらほら話題となっていましたが、コロナ禍も3年目、いよいよ”あぶない”局面に来てしまったようです。こんな、観光資源も豊かな街中で、どうして?と、私も当初驚いたのですが。どうやら、京都ならではの要因が多数あるようです。簡単にいくつか挙げてみます。

まずは、住居の少なさ。寺社や大学が、広い敷地を有する京都市。ただでさえ、土地は限られる中、景観保全のため建物の高さには制限があります。居住可能な戸数を増やせず、住みたい人が多いのに、住民税税収が伸ばせません。

そして、大学の多さは、学生の多さも意味します。かつて学問の地として大学を招致したのは良かったのですが、学生からとれる税は多くありません

また、寺社も多くあり、規模も大きいのですが、宗教法人ですから寺社の収入は税制に組み込み辛いのです。国税局も内情を知り得ないお寺の収支が存在します。境内を整備しても余るほど、収入はあるのでは?と素人としては思ってしまうのですが。京都市が、何度かここの問題に取り組んで、挫折したことは、上に書いた通りです。

その他にも、地下鉄が予想通りの採算を全く取れていないことなども、問題のようです。

このような状態は、コロナ禍以前から、続いていたわけです。そこに、観光業にまで大打撃を与える災害が降りかかって、このような発表に至ったのでしょう。

窮状は、観光客の激減した寺社も同じでしょう。ようやく、2021年秋、緊急事態宣言が明け、観光に目線を向けられるようにはなってきました。以前の賑わいも、取り戻せるかもしれません。京都市の窮状を聞くと、観光客を取り戻せた寺社が、市民を助けるため今度こそ市税に協力する、などという手段も、ふと考えてしまいます。もちろん、お坊さんだけに頼っているわけにはいかないでしょうが。

伝統工芸であれ、世界遺産であれ、街であれその維持管理には金銭のかかるもの。仏教の世界でも祈りの場を維持するために、収支をしっかり管理しています。それはけして、批判されるべきものではないのです。崇高なことをしているからと、金銭のやり繰りを不浄のように扱ってはいけませんよね。経営を甘くみてはいけない、それはむしろ、京都市よりお寺さんの方が分かっていたようです。持続可能な方法を模索していかなければなりません。

いかがでしたか?斜めから読む、京都読本。お寺に関する記述からの感想を主に書きましたが、興味をもっていただければ、幸いです。ただ外から眺めるのではなく、中から分析、批判することは、その地の一員として街を存続させたいという姿勢の表れでもあると思うのです。

嫌い嫌いと言いながら、京都のことを考察してしまう作者の、ひがみっぽく、辛口の愛に満ちたエッセイでした。

 

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