【鎌倉殿の13人】木曽義仲の進軍【倶利伽羅峠の戦い】

木曽義仲 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

1180年、歴史が大きく動きました。平氏を倒す機運は、実際の反乱、複数の武士たちの挙兵として露わになったのです。

5月の以仁王の乱、8月の頼朝の挙兵。

信濃の木曽義仲も、1180年9月、以仁王の子・北陸宮を擁し、木曽谷で挙兵(下記経過図の1)しました。ちなみに義仲の兄・仲家は、5月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死しています。そのことも、彼が挙兵を決めた要因だったでしょう。

10月には「富士川の戦い」で頼朝軍は勝利。この後、打倒平家の流れは一度、勢いを失います。その背景にあったのは、養和の飢饉と呼ばれた、大飢饉でした。

この前後、平家は、西日本を重点的に統制し、頼朝や義仲との戦いを想定し足元を固めていたようです。

当時、大きな勢力としては、平家が京都を中心とした近畿近国・西日本・東海の一部を、源頼朝が東海地方・関東地方を、木曽義仲が東山地方(山梨・長野・岐阜)を、それぞれ拠点にして三者がにらみ合っている状態となっていました。

1181年閏2月、清盛が病により、死去します。優秀な戦略家で、平家の司令官でもあった清盛が亡くなったことは、大きなニュースだったでしょう。均衡は崩れます。この状況で、最初に動き出したのは、信濃の木曽義仲でした。

今回は、木曽義仲の進軍について、ご紹介します。

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養和の飢饉が足止めに

養和の飢饉

「富士川の戦い」は、戦いらしい戦いもなく、その後の京への進軍もなく、幕が引かれました。

当時の進軍は、現地での戦力確保や食料確保をしながら行われました。「平家物語」などにも記されています。本拠地から運ぶのはもちろん、現地でも人や物資を調達したのです。戦の場所が本拠地から離れるほど、この現地調達が重要になります。
しかし、この頃は、養和の飢饉がはじまったころ。いくら官軍であっても、ない食料を奪うことはできません。

【養和の飢饉】 1180年、降水量が極端に少なかったために、干ばつにより農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。
大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。

このことは、頼朝軍にも影響したはずです。本拠地から離れるほど、物資の調達が難しくなることは同じですから、深追いができなかったのです。挙兵に従った関東の武士たちも、自分たちの領地の守りが、手薄になっている状態を望みません。

頼朝軍が、佐竹氏との「金砂上の戦い」以降、1184年まで、大きく軍兵を動かさなかった要因としても、この飢饉があげられるでしょう。

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義仲の進軍

画像はクリックで拡大できます。

木曽義仲の進軍

1181年6月、義仲は信濃に侵攻してきた、平家方の城氏の大軍を「横田河原の戦い」(2)で撃破。この後、横田城を拠点とし、北陸への進出をねらうようになります。

数で圧倒する平家の討伐軍

1183年4月、平家は大規模な軍勢(「平家物語」では10万騎とされる)を率い、この北陸を統制するため、越前へと進軍しています。このとき、木曽義仲は、越前まで一度、進出していたようです。

倶利伽羅峠の戦い

両軍は越前の、火打城(燧ヶ城)で戦いました。「火打城の戦い」(3)です。ここでは、平氏方への寝返りなどもあり、平家が勝利。平家軍は、連勝しながら、越前・加賀へ進みました。しかし、5月「般若寺の戦い」(4)で、木曽義仲の郎党、今井兼平が奇襲を成功させ、戦いの場は、倶利伽羅峠へと押し返されます。

5月11日、越中国の国境での「倶利伽羅峠の戦い」(5)で義仲は平維盛率いる平家軍を破ります。

「倶利伽羅峠の戦い」
1183年5月、越中・加賀国の国境にある砺波山(となみやま)の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。義仲軍は平家軍と対峙すると「懸け合い戦法」をもちかけます。「懸け合い戦法」は一騎あるいは数騎の武者が名乗りをあげて戦うもの。こうして夕暮れ時となった頃、義仲の配した包囲網は完成していました。義仲は軍を何手にも分けていました。そうして3方向から攻め、わざと残された南へと、平家軍をおいやります。平家が逃れた南側にあるのは、地獄谷。維盛の軍勢は、多くが滑落したとされます。ちなみに「牛の角に松明(たいまつ)をつけて敵中に向けて放つ」という「火牛の計」という策は、「源平盛衰記」で創作されたエピソードのようです。

下図は「倶利伽羅峠の戦い」を表したもの。
倶利伽羅峠の戦い
続く6月1日の「篠原の戦い」(6)にも勝利して、勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、そのままの勢いで京都を目指して進軍しました。

比叡山をも、その軍勢で圧倒し、比叡山内で拠点を築きつつ、京への進軍を準備したようです。

このとき義仲と行動をともにしていた、トラブルメーカーな叔父・行家もちゃっかりと伊賀(現在の宇治辺り)に進出しています。

平家都落ち・義仲入京

7月25日、都の防衛を断念した平家は安徳天皇を擁して西国へ逃れました。なお平家は後白河法皇も伴うつもりでしたが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごしたのです。

義仲は1183年7月28日に入京、行家と共に蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられます。このとき、義仲と行家は、相並んで前後せず、序列を争っていた、とされます。

30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになり、同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになりました。

しかし、義仲は京都での振る舞いのせいで、京の人々から嫌われてしまったようです。

木曽義仲入京の際は、5万といわれる軍勢が京に駐留し、しかも物資の略奪を容認していました。飢饉のさなかに、このようなことをすれば、京にとっては守護者ではなく侵略者です。次期天皇に、自分が奉じた北陸宮を押すなど、分不相応な物言いもし、嫌われました。

彼は、後白河法皇にも疎まれ、1183年10月、追いやられるように、平家討伐を急かされました。この時の「水島の戦い」(7)は備中(現在の広島の辺り)で行われ、平家が得意とする海上戦でした。義仲は押されます。

交渉で出し抜かれる

さらに、自分が京を離れた間に、頼朝が交渉を進め、義経の軍勢が京に向っていることを知ります。義仲は、戦を切り上げ、急ぎ京へ戻りました。

義経は、10月には鎌倉を発って、伊勢に滞在していました。頼朝の用意周到さが見て取れますね。

義仲にとっては、もはや頼朝は話し合いの相手ではなくなってしまいました。彼は頼朝を完全に敵として認識したのです。これは、間違った認識ではなかったでしょう。しかし、過剰に反応してしまったことは、木曽義仲の失敗でした。上辺だけでも、味方として迎えれば、争う切っ掛けを与えずに済んだはずでした。

後白河法皇、義仲を見限る

争いの火種は、もう一つありました。後白河法皇が完全に義仲を嫌ってしまったのです。

後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため、義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになります。これはどうやら、義経軍が来ることも、見越した行動だったようです。

こうして、1183年11月、追い詰められるような形で、木曽義仲は法住寺殿を攻め(「法住寺合戦」(8))後白河法皇を幽閉。朝敵として、頼朝が攻める口実が整ってしまいました。

宇治川の戦い

義経軍はすでに、京へせまっていました。攻めるタイミングを図っていたのです。

1184年1月「宇治川の戦い」(9)で、義仲軍は義経軍に敗れ、敗走。

義仲はついに近江「粟津原の戦い」(10)で、討ち死にしたのです。

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先に入京したのに、勲功は頼朝に

睨み合う、頼朝と義仲、そして平氏。その状況を一番に打開した義仲。京を奪い、後白河法皇へ参じたのですから、彼が一番の功労者とされてもおかしくない状況だったはずです。しかし、義仲は交渉において、失敗を重ねました。

戦の後の政治的な展望や、交渉においては、頼朝が上手でした。頼朝は、東海・東山道占拠の解除、返還を申し出て、交渉の材料とします。義経の入京に際しては、京の市中では戦をせず、義経の後から来ていた範頼軍は、近江に留めました。大軍が京に駐留し、京の人々を圧迫するのを避けたのです。

自らは動くことなく、交渉で後白河法皇や摂関家、京の人々の望むものを提供した頼朝。義仲は、頼朝の交渉力に負けたのです。

義仲は戦略に優れ、戦においては、実力者でした。周りを固めた武将や女武者・巴御前とのエピソードは「平家物語」に記されます。巴御前について触れた記事は下記の後半です。合わせてご覧ください。

【鎌倉殿の13人】頼朝のライバル 、でも交渉はからっきし!?【木曽義仲】

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

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