フランソア喫茶室
かつて、戦争へと大きく傾いていく気運のなかで、反戦のため闘った喫茶室の店主が、ここ京都にいたことをご存じでしょうか。
その闘い方は、タブロイド版の反戦雑誌『土曜日』を支援する、というもの。ペンと紙による、闘いです。
その「フランソア喫茶室」、開店したのは1934年(昭和9年)、それから86年変わらぬ場所で営業を続けています。行って参りましたので、ご紹介します。
耳で聞く、読書はいかが?
日本最大級!オーディオブックなら - audiobook.jpフランソア喫茶室 客船をイメージしたモダン建築
まずは外観。レトロなヨーロッパの喫茶店のよう。上品なたたずまいで周りの風景に溶け込んでいます。
アンティークな店内。クラシック音楽が流れています。
現在のインテリアは、1941年に大規模な改装を行った時のデザインを、ほぼそのまま守り続けています。豪華客船のホールを思わせるイタリアン・バロックを基調とした装飾が施され、ステンドグラスが漆喰の白壁に彩りを添えています。
ステンドグラスからの光が入ります。
木屋町通りに面した淡いグレーの外壁には当時から2つの尖塔アーチ状のステンドグラス窓があります。レジカウンターの奥にはかつて大型の蓄音器が大量のレコードと共に置かれていました。店内中央部のドーム状の天井は、まさに客船のホールを連想させます。これらのデザインは、ベンチベニ自身がイタリアから日本へ移り住む際に乗った大型客船「コンテ・ヴェルデ(緑の伯爵)号」がモデルだと思われます。また、ステンドグラスは画家であった高木四郎の作です。
奥はドーム型の天井になっています。確かに豪華客船の船内のよう。タイタニックも、およそ100年前の豪華客船ですから、船内の再現された映画を思い浮かべても、あながち間違いではないでしょう。
シナモインシュガーのトーストとコーヒー。とても美味しくいただきました。
こちら、給仕をしてくれる店員さんの服装もレトロでかわいらしいです。この喫茶店ができる少し前、女給さんという存在はちょっとしたアイドルとなっていたのをご存じですか。
フランソア喫茶室ができる少し前の時代、京都にも東京と同じように、一大カフェーブームがありました。各カフェーがかかえた女給さんはアイドル的存在としてもてはやされ、その人気が加速したため、風紀を乱すと取締られるほど注目を集めたのです。
いわゆる喫茶店は、そのカフェーに代わる、上品なお店として広まったようです。フランソア喫茶室も、そのような時代の流れの中、始まりました。
カフェー・喫茶店 当時どのように認識されていた?
その当時の喫茶店事情を少し、説明しておきましょう。『幻の「カフェー」時代』という本は、100年ほど前の京都におけるカフェーブームと、その時代の京都の街の様子を、詳しく解説してくれる本です。
この本から分かるカフェーの広がりの変遷をご紹介します。
森鴎外は『うたかたの記』で、欧州にある、芸術や文化が交わり発酵する空間としてのカフェーを登場させます。また、女給がエプロンをつけて給仕するという観念も表現されました。
『舞姫』では、カフェーに「客を延く女」が描写され、カフェーと性の関係も暗示されました。岩村透は『巴里之美術学生』で「日本に、そして東京に芸術家が集まるクラブやサロン、あるいはカフェーのようなものが全くない」と嘆いたそう。カフェーを望みその設立を促したのは、若い芸術家・文学家たちでした。まず、洋風のカフェーというものが、日本に開店したのは、東京・銀座が早く、1911年(明治44年)のこと。
京都にも、同年、カフェーと定義される店が「寺町」や「吉田」にある、と「京都日出新聞」に奏輝男のエッセイとして記述されています。1912年には、「京都日出新聞」に「京都のカフェー」という記事も記載されました。カフェーは繁華な街、学生街、そして花街の近くに、増えていきました。そして、この記事でもすでに女給的な存在、女性の給仕が注目され、カフェーの重要アイテムと捉えられていたようです。京都の場合、1910年代のカフェーは市電路線の拡充とともに増えていきました。全国規模でも「中央公論」が文壇などで活躍し始めた新人にアンケートをとり、その際新時代の「流行の象徴」とされたのが「自動車」や「活動写真」と並んで「カフェー」でした。
フランソア喫茶室が誕生するまでのカフェー・喫茶店事情というものの変遷をご紹介しました。
フランソア喫茶室と新聞「土曜日」
ここにきて、やっとカフェ・喫茶店が日本に紹介された当初の目的に立ち戻ったようなかたちとなりました。しかし、世間は第一次大戦の好景気も終わり、関東大震災を経て不景気と閉塞感のなかにあったようです。政治の上では軍部の暴走も度々みられはじめました。国際的な軍縮の動きに、軍部は反発していたのです。
国民の見方も、軍部に賛同する向きがあったとする歴史書物もあります。日清戦争、日ロ戦争と勝利した記憶や、第一次大戦の軍需に沸いて発展してきた半世紀の後ですから、当然の気運かもしれません。
そんな情勢のなかで、反戦を掲げた文化新聞『土曜日』。
『土曜日』は、1936年7月4日に京都で創刊された隔週新聞である。戦争や軍事へと傾斜していく当時の日本社会を、市民や文化の側面を通して、平和や自由へとつなぎとめようという小さな試みだった。
そしてこの『土曜日』を店内に置き、新聞の活動を支援、新聞に店の広告も出していたのがフランソア喫茶の創業者、立野正一。
フランソア喫茶室の創業者である立野正一(たてのしょういち/1908年生まれ)は画家を志していましたが、尊敬する先輩の影響を受け、美術学校を退学して労働運動に関わり、活動家たちの資金を支援しようと1934年に喫茶店を開店。
まさに、欧州での革命家のアジトのように、森鴎外や岩村透が伝えたカフェのように、この店は機能していました。
1937年、創業者の立野正一は、治安維持法により、逮捕・投獄されます。妻であった佐藤留志子が店の経営を続け、現在まで続いてきた、という店なのです。
いかがでしたか?戦争の時代と闘った、その歴史を知りながら、ぜひ、本を片手に訪れてみては?
参考文献 『幻の「カフェー」時代』淡交社 斎藤光著
【おすすめ】
京都の和雑貨、ギフトにどうぞ
着物と浴衣、晴れ着、和装小物通販のお店が提案する【京都きもの町のギフト特集】
コメント