頼朝の乳母として知られる人物は、比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母の4人です。この内で、特に頼朝と篤い信頼で結ばれていたのが、比企尼と寒河尼でした。冷徹なカリスマ、頼朝が背中を預けることができた二人について、解説します。
比企尼(ひきのあま)
頼朝の乳母であった比企尼は、武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允(かもんじょう)と共に京から領地へ下り、頼朝が配流された1160年から1180年の秋まで20年間頼朝に仕送りを続けました。
長女は安達盛長(鎌倉殿の13人の一人。足立遠元は安達盛長の甥)と、次女は河越重頼と、三女は伊東祐清と結婚。彼らは東国各地の有力武士です。比企尼は、婿たちに頼朝支援を命じました。
比企氏の家督は甥の比企能員(ひきよしかず)を尼の養子として迎えることで継がせています。後に能員が頼朝の嫡男・頼家の乳母父、義父となって権勢を握ったのは、この尼の存在におけるところが大きかったのです。なお、尼の次女と三女も頼家の乳母となっています。
比企尼が取り結んだ、結婚という契約
安達盛長
安達盛長は武蔵国の武士。流刑時代の頼朝の従者。頼朝挙兵に従い、使者として関東武士の糾合に活躍しました。石橋山の戦いの後、安房に逃れた際、下総国の大豪族、千葉常胤を説得し、味方につけました。娘は頼朝の弟、範頼の室となります。
平治の乱で、頼朝の父義朝方で闘った足立遠元は安達盛長の甥(年長の甥)。足立遠元の娘が後白河法皇の腹心の妻であったため、安達盛長が頼朝と後白河法皇の仲介も果たしました。
河越重頼
河越重頼は武蔵国の武士。頼朝の挙兵当初は、平氏方でしたが、後に頼朝の有力御家人となり、彼の娘は義経の室となります。この縁のため、河越重頼は義経追討に連座するかたちで攻めを受け、誅殺されてしまいます。頼朝の指示で娘を義経の妻としたのに、その義経に連座させられる形で処分される、不遇な扱いを受けてしまいます。この当時の結婚は、正に同盟や契約を意味していたのですね。
伊東祐清
平氏方で頼朝の監視役でもあった父・伊東祐親から、頼朝を救い出した人物です。八重姫の兄弟ですね。しかし、戦況においては父親と共に、主君である平家の側につき、戦死しています。未亡人となった比企尼の三女は、源氏一門の最上席である平賀氏当主の平賀義信に再嫁しました。
二代目将軍を託された、比企能員
比企氏の家督は甥の比企能員を尼の養子として迎えることで跡を継がせています。後に能員は頼朝の嫡男・頼家の乳母父となって権勢を握ってゆきます。
頼朝一家と比企氏の結びつきが強かったことが分かりますね。頼朝自らも、比企尼の孫娘たちと自分の弟を縁組させ、さらに比企氏と嫡男・頼家を何重にも結び付け、頼家の後ろ盾としていきます。それだけ、比企氏を信頼していた、ということでしょう。
頼家は実母、政子のいる館ではなく、比企の館で育てられました。比企能員の娘・若狭局を妻にし、一幡という嫡男も生まれました。
頼朝を不遇な時代から支えた比企氏は、二代目将軍の育ての親となり、さらに次代の将軍候補の外戚である、というポジションを得ていったのです。
寒河尼(さむかわに)
頼朝の乳母。寒河尼の夫・小山政光の一族、寒河尼の兄弟・八田知家を頼朝方として参戦させました。
下野国は平治の乱まで頼朝の父・義朝が受領を務めたこともあり、頼朝寄りでした。
しかし、代々の主従関係よりも、平氏の権勢を考え反頼朝となった、頼朝の乳母子・山内首藤経俊、次兄の外戚・波多野義常(相模国)ら武将もいたことを考えると、やはり寒河尼の判断と、影響力が大きかったのでしょう。寒河尼は、夫が京都へ出向いているなか、頼朝挙兵を知り、自分の判断で末子・結城朝光を連れ、頼朝の元を訪れました。
八田知家
八田知家は富士川の戦い直後には頼朝方として参戦。1183年、頼朝の叔父にあたる志田義広との野木宮合戦に参加。1184年8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。下野国茂木群を安堵されまた。”鎌倉殿の13人”の一人にもなっています。
小山政光・結城朝光
後に結城朝光と呼ばれる人物は、寒河尼と小山政光の末子。1180年の頼朝挙兵時から2か月後に、寒河尼が末子を奉公させたいと連れてきた際、頼朝が烏帽子親となっています。この時、寒河尼の夫は大番役として京都におり、夫の不在時は妻がその権限を有していたと考えられます。この尼の行動により、下野国最大の武士団小山氏が、頼朝方となりました。
結城朝光は、後に頼朝の寝所を警護する11名の内の一人となり、「宇治川の戦い」から「壇ノ浦の戦い」まで歴戦。頼朝に信頼されました。頼朝亡き後の、「梶原景時の変」でも、『吾妻鏡』ではキーパーソンとして登場します。
寒河尼は女地頭?
文治3年(1187年)12月、寒川尼は「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒河群ならびに網戸郷の地頭職に任じられ、女地頭となった。(ウィキペディアより)
上記は、『郷土史事典 栃木県』による記述だそう。頼朝であれば、このような処置があっても不思議ではありませんね。
乳母という、後ろ盾
頼朝挙兵時、敵・味方を分けたのは、先祖伝来の主従関係だけではありません。武士たちは、自分の土地に恩恵をもたらす側に、付きました。実利ありきのドライな分かれ方だったのです。そんな中、頼朝の二人の乳母たちは揺らぐことなく頼朝を支え続けた存在です。
特に、比企尼は、考え得る限りの最大の援助をしています。平家に敗れ、流人となった頼朝に仕送りを続けるだけでも、危険な行為だったでしょう。それは、頼朝が挙兵し確かな支援者が出来るまで続きました。さらに、自分の三人の娘たちに、関東の有力御家人を頼朝の味方となすよう使命を与え、嫁がせました。物語に描かれる、忠義の人の見本のようです。
頼朝がこの忠義に深く感銘を受け、信頼していたことは、その比企一族の女性と、自身の弟たちの縁談を結び、嫡男頼家の乳母や、妻としたことからも分かります。過去から未来まで、その縁を深め、後ろ盾として恃んだのでしょう。実利主義者、頼朝が安心して背中を預けられるほど信頼していたのが、比企尼だったのです。
寒河尼もまた、自分の夫・兄弟を頼朝の味方とさせました。彼女たち、乳母という存在は何とも大きな、頼朝の親衛隊となったのです。三善康信の伯母もまた、頼朝の乳母でした。三善康信が流人時代の頼朝に京の情勢を月に3度、伝えていたこともその縁のためでしょう。
もちろん、乳母やその親族だからといって必ずしもその若君の味方となっていくわけではありません。頼朝の場合でも、山内首藤経俊は頼朝の乳母、山内尼の子であり、挙兵時には頼朝に味方として期待されますが、敵対します。乳母やの親族の側でも、その若君に賭け、支援するかどうか、判断をしているのです。比企尼・寒河尼は、頼朝の育ての親となりその血筋を含め、頼朝に武士として、源氏一族の主として、また武士団の棟梁としての器量・実力があると判断したのでしょう。その上で、全力での支援をしているのです。
親族同士、親子、兄弟でも、殺し合う武士の世界にあって、肉親よりも堅い絆で結ばれることもあった、若君と乳母。現代からすると何とも不思議ですが、胸の熱くなる”信頼”や”忠義”もここには存在したのです。大河・鎌倉殿の13人では草笛光子さんが、比企尼を演じます。どのように描かれるのか、楽しみですね。
いかがでしたか?最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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