『鎌倉殿の13人』脚本家の三谷幸喜さんは、源頼朝を「サザエさん」でいう「マスオさん」、と解説しているようですが、それでいくと、北条時政は「波平さん」。政子、義時の父で頼朝の義父です。大河『鎌倉殿の13人』第一話では『最後は首チョンパじゃねぇか』なんてラフなしゃべりと、人懐っこさですでに話題。時政パパなんて愛称で呼ばれています。さてこの北条時政、実際はどんな人物だったのでしょう。
北条時政を端的に表すなら
時世を読み、頼朝を押し上げた立役者。交渉に長け、したたかに権勢を狙った東国武士。
でしょうか。この人なしでは、頼朝は挙兵をしたか分かりません。しかしまた頼朝だけが、北条時政を使いこなせた主君でもありました。それほどに、彼の交渉と策謀は侮れないものとなっていきます。
1175年 伊東祐親の元から、祐清(伊東祐親の子)の助けで逃げた頼朝が、時政の保護下に入ります。
この時、時政38歳、頼朝29歳(伊豆にきて15年目)政子20歳、義時13歳。
義理の父とはいえ、頼朝と時政とは9歳しか違わなかったのですね。
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頼朝の挙兵、後押しした時政
北条時政は伊豆国在庁官人でした。
時政は頼朝が伊東祐親の館から時政館に逃げ込んだ頃、在京中でした。京都の情勢にも詳しかったようです。
1176年~77年 政子と頼朝の関係を知った当初は、二人を引き離そうとしたようです。平氏に負けて、追い落とされた源氏の流人だった頼朝との姻戚関係は、まだ危険でした。しかし、結局二人を認めたのは、時世が反平氏に傾くことを読んでいたからかもしれません。
1180年 5月 打倒平氏を掲げ挙兵した以仁王(もちひとおう・後白河法皇の子)は、伊豆の知行国主であった源頼政と共に敗死。伊豆知行国主に平家の人間が就任。平家方の伊東祐親の力が増し、これに、時政ら在庁官人が反発していたようです。
京都の三善康信からは、以仁王の令旨を受けた者の追討の情報も入っいました。
頼朝はこれらを受け、1180年8月に挙兵に動きました。血筋は良くとも流人であり、家人も、財力も北条に多くを恃んでいた頼朝。時政が後押しし、頼朝に賭ける決意をしたのかもしれません。
交渉に長け、頼朝に重宝される
最初に、頼朝が時政の交渉力を認めたのは、挙兵後間もなくでした。石橋山の合戦で負け、安房国(千葉県南部)にて再起を図っているとき、時政・義時父子には甲斐国、武田党との交渉が任されました。これは1180年8月末のこと。10月の対平氏軍との戦い「富士川の合戦」では、武田党が源氏軍の中核となっていました。
時政の交渉が、この戦いの大勝をもたらしたのです。
そして、時政は朝廷に対しても、その交渉力を発揮します。
1185年11月 頼朝は、叔父行家と弟義経を反逆者として、追い落とそうとしていました。しかし、朝廷、後白河法皇が煮え切らない対応をしていると、頼朝は時政を送り込みます。
初代、京都守護に任じられた時政は1000騎を率いて上洛。頼朝の怒りを、後白河法皇に伝えます。この時時政が認めさせた事柄は
全国に「守護・地頭」を設置することを認めさせる
朝廷にいた反幕府的公卿の解任、親幕的な公卿の登用
関東御分国八ヶ国に豊後国を加える
などでした。これほどのものを朝廷から引き出し、しかし朝廷から憎まれなかったと言います。これほどの交渉上手であれば、頼朝に、重宝されたのも、納得です。
頼朝存命中も、したたか
しかし、頼朝は時政に幕閣の要職などは与えませんでした。野心家である時政を警戒したか、あるいは北条家だけを取り立てているという、他の武士たちの反感を避けるためだったのかもしれません。
1182年頃から、時政は鎌倉殿御外戚として勢力を拡大していました。東国の大豪族に娘たちを嫁がせています。(足利義兼、畠山重忠、宇都宮頼綱など)
さらに西方(西伊豆~九州)に領土も拡大しています。
頼朝亡き後、権勢を求め暗躍
1199年1月 頼朝が没すると、二代目「鎌倉殿」頼家が跡を継ぎます。
ここで、4月には「13人の宿老会議」を組織。
様々な対立を内包していた幕府ですが、この頼家に対する不信は、みな共有していたようです。
この時の鎌倉殿の13人、宿老は
北条時政、北条義時、大江広元、三善善信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政
でした。
時政は、このとき初めて、幕府要職に就きます。
そして、時政の暗躍が始まります。
相次ぐ族滅の陰に、時政あり
梶原景時の族滅
1199年12月 事件は起こりました。
梶原景時と言えば、頼朝の信頼の篤かった東国武士です。義経が不忠であると頼朝に進言し、『吾妻鏡』などでは身内スパイのように描かれた人物。その『吾妻鏡』では、この梶原景時は追い落とされるときも、このスパイのような動きを周りが嫌ったかのように書いています。
つまり、「主君は頼朝一人だ」と言った朝光に「梶原景時が、きっと(今の君主の)頼家に告げ口をして、あなたを死に追いやるでしょう。」と女官に言われた、というのです。何その回りくどい状況、とツッコミたくなりますが。そこから、皆に弾劾状を書かれては、とばっちりもいいところです。
どうやら、この逸話は歴史の勝者、北条氏によって”創作された”ストーリーのようです。
京都の公卿九条兼実の書いた「玉葉」には
とあるのです。どうやら、ここに真相がありそうです。
『吾妻鏡』で朝光を追い詰めた女官・阿波局は時政の次女でした。御家人66人の連署には北条父子の名はありませんでした。66人もいて、主たる宿老二人の名だけ無いというのも、おかしな話です。
これは、時政が、梶原景時を陥れる、罠だったようにも思えます。そして、千幡丸(実朝)の擁立の陰謀もこのとき既にあり、時政は関わっていたかもしれません。
正しく、現将軍のためになる情報を集めていたかもしれない、景時。後に書かれた書物では、勝者によって事実が捻じ曲げられることも、よくあります。この時の勝者は、時政でした。
阿野全成、誅殺される
頼家も、北条時政による陰謀があること自体には気が付いていたようです。そして、自分に代わって将軍に押し上げられようとしているのが、阿野全成だと思い込みました。阿野全成(幼名、今若)は頼朝、義経の兄弟。義経とは、母も同じです。全成は、時政の次女と結婚しており、頼家は、時政が全成を擁立しようとしていると、誤解したのです。
1203年5月、頼家は全成を突然誅殺してしまいました。
先手を打ったつもりだった、頼家。しかし、実際に時政が擁立しようとしていたのは千幡丸(実朝)でした。
比企氏滅亡
1203年8月 頼家の体調が危急に及んだことを知った時政は、将軍家の権力を二分、頼家の弟、千幡丸(実朝)と、頼家の子、一幡丸に振り分け譲ると決めてしまいます。
もちろん、頼家の室の若狭局、その父比企能員(ひきよしかず)が黙っていません。この比企氏、かつて時政が頼朝の御外戚であったように、頼家の御外戚です。時政にとっては頼家同様、潰したい相手です。
比企氏は頼家に、ことの次第を告げ、頼家は時政追討を下知します。しかし、その知らせもすぐ時政の知るところとなり、能員を自館で誘殺。
比企一族は頼家の子、一幡丸を擁して、小御所に立てこもりました。そこへ、政子の命を受けた幕府軍が向かい、比企氏は滅亡したのです。
時政は、頼家の近侍に、子の時房を送り込むなど用意周到でした。
頼家暗殺
比企氏を滅ぼした直後、朝廷に使者が立ち、まだ死んでいない頼家が死んだと報告されました。朝廷に千幡丸を三代将軍とする許可を求めたのです。
しかし、時政の思惑とはずれ、頼家は体調を持ちなおします。頼家は出家・落飾させられ、伊豆の修禅寺に流され、時政の刺客に殺されてしまいました。
三代目「鎌倉殿」実朝が就任。この時、時政は大江広元と並んで、幕府政所の別当となりました。これは、いわゆる執権に就任した、ということです。時政の娘の中には京都の公卿と結婚した者もいて、時政はさらに、朝廷への接近も図っていたようです。
北条の結束はやがて崩れ
頼朝亡き後の、時政の暗躍ぶりは、目を見張るばかりですね。政敵を追い落とし、二代目「鎌倉殿」頼家を引き下ろしました。この間、義時、政子も、足並みを揃えるかのように、控えています。政子にとっては、わが子を見殺しにする結果となりました。やはり、北条の家のため、あるいは、望む治世のため、だったのでしょうか。
この後、長く幕府に仕えた忠臣、畠山重忠を討つことになる争いや、牧の方(時政の後妻)の娘婿、平賀朝雅を擁立を企てる時政の陰謀(牧の方事件)など、はっきりと、時政と、義時・政子の間に考えの相違ができていきます。
牧の方事件では、政子が兵を発して、実朝の身柄を保護。それにより、時政の兵も政子方につき、決着。時政vs義時・政子の争いとなり、義時・政子が父、時政を破りました。
この事件により、時政は出家、伊豆北条郡に引退します。1215年、78歳で亡くなっています。
どこまでも、権勢を求めた時政。彼を扱いきれたのは、頼朝だけだったのかもしれません。大河『鎌倉殿の13人』では歌舞伎役者の坂東彌十郎(ばんどうやじゅうろう)さんが時政を、その後妻で牧の方を宮沢りえさんが演じます。三谷幸喜さんの描いた時政パパは、今のところ人懐っこい人気者。この人物が、どのように策謀の主となっていくのか、楽しみですね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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