【鎌倉殿の13人】なぜ、頼朝に嫌われたのか【”無邪気なサイコパス”義経】

源義経 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

さて、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第9話で、再会を果たした頼朝と義経。坂東武者の自分とは別の思惑を知っており、また坂東武者たちの結束を目の当たりにしてきた頼朝。彼にとって兄弟との再会は、大きな望みであったでしょう。

しかし、後に頼朝が義経を疎んじ、討伐したこともまた、有名な史実です。なぜ、望みをかけた義経がそうまで嫌われたのでしょう。

今回の三谷幸喜さんの描く義経は「義経記」や歌舞伎の演目のようなきれい過ぎる義経ではありません。”無邪気なサイコパス”として描かれていますよね。「平家物語」や「吾妻鏡」を頼りに読み解くと、どうやらこちらの義経の方が、史実には近いようなのです。

義経の生い立ちや、年表については以下をどうぞ。

【鎌倉殿の13人】戦の天才、それは無法者のなせる技?!【源義経・年表】

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頼朝が義経に冷酷になった理由

義経追討に至る流れ

頼朝が、数々の功績のあった弟・義経を、4年の間追い続け、死に追いやった史実はインパクトがありますね。
腹心、梶原景時(後の鎌倉殿の13人の一人)による讒言(人を陥れる嘘の進言)を信じ激怒したというエピソードは、本当でしょうか。

いずれにしても、義経を追う、頼朝は執拗でした。

歴戦のあと、鎌倉から追い返された義経が京でおとなしくしているところへ、頼朝は叔父・行家を討てと難題を吹っ掛け、義経が断れば、行家と通じていると断じてしまいます。
その後、頼朝の命による襲撃事件を受け、義経は反旗を翻す形となりました。しかし、直前まで共闘して源平合戦に勝利したばかりの兄弟の諍いに、両者とも兵は集まりません。
御家人が集まらなかった頼朝は自ら出陣。義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を引き出しますが、やはり兵が集まらず郎党や行家と共に、戦わずに京を去りました。

それでも収まらない頼朝。北条時政を京へ送って朝廷に圧力をかけ、「守護・地頭」を認めさせます。これは当初、義経を捕縛する目的で鎌倉主導の警備権を許したものだった、と言えるでしょう。

義経は、奥州まで逃れました。当初義経を匿っていた、藤原秀衡。しかし彼が亡くなり、頼朝を恐れた息子の藤原泰衡は義経を討ちます。首は鎌倉へ送られました。首が差し出されたにもかかわらず、頼朝は奥州藤原氏を攻め、滅ぼしてしまいます。

静御前が生んだ男子は殺され、義経に娘が嫁した河越重頼も討たれました。頼朝は徹底的に義経の痕跡を潰したのです。

疎んじられた義経

戦で捕らえた敵の武士たちであっても、自分のために戦で働けば武功を認めるなど、チャンスを与えていた頼朝。
そんな頼朝が、なぜ義経に対しここまで執拗な”怒り”を持ち続けたのでしょう。

頼朝が、義経を疎んじるようになった理由をいくつか挙げてみます。

1180年10月、頼朝と義経が再会した頃、頼朝には嫡男がまだ生まれておらず、頼朝は義経を後継者として考えていた節があります。しかし、1182年8月嫡男頼家が誕生。後継者問題は解消されます。

また、頼朝は義経の背後に奥州藤原氏の支援も期待し、義経を厚遇していました。(「平家物語」の「延慶本」では義経が頼朝の元に馳せ参じた際、奥州藤原氏の武将を連れていたとされます。)しかし奥州藤原氏は、1181年の平清盛の死を契機に頼朝支援を辞めてしまったのです

そもそもの、二人の再会当初から、頼朝の頭には政治的な計算がありました。ただただ兄弟の情だけで義経を厚遇したわけではなかったのでしょう。そして頼朝が義経を厚遇する理由は、一つ、また一つと消えていったのです。しかし、これらの状況の変化に、義経はあまり敏感ではありませんでした。厚遇されていたころのまま、振る舞ったようです。

さらに頼朝が義経を疎んじていく要因として、頼朝の許可なく、官位を朝廷から任官したことがあるでしょう。戦において梶原景時ら、頼朝の腹心の武士の進言や忠告をないがしろにしていたこともあげられます。

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梶原景時が指摘した、義経の危険性

「戦において梶原景時ら、頼朝の腹心の武士の進言や忠告をないがしろにしていたこと」を上記であげました。もう少し詳しく見てみましょう。

1185年2月「屋島の戦い」に際して軍議で梶原景時は義経と対立。(逆櫓論争)源氏方としては勝利。
1185年3月「壇ノ浦の戦い」に際しても、軍議で梶原景時は義経と対立。源氏方としては勝利。
これらの対立を、詳しく述べているのは、『平家物語』です。
『平家物語』は、日本の鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いた。作者は不明。

「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」の下りなどに、梶原景時と源義経の確執が生まれる描写がみられます。

『平家物語』によれば、義経の軍に属した景時は兵船に逆櫓(さかろ)をつけて進退を自由にすることを提案。義経はそんなものをつければ兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対。景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と言い放ち義経と対立した。いわゆる、逆櫓論争である。2月、義経は暴風の中をわずか5艘150騎で出港して電撃的に屋島を落として、景時の本隊200余艘が到着したときには平氏は逃げてしまっていた。景時は「六日の菖蒲」と嘲笑された(屋島の戦い)。

ちなみに、「六日の菖蒲」とは5月5日の節句に間に合わなかった菖蒲の花のこと。遅すぎる、とバカにしたということですね。また、「壇ノ浦の戦い」に際しては

『平家物語』によれば、軍議で景時は先陣を希望したところ、義経はこれを退けて自らが先陣に立つと言う。心外に思った景時は「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と愚弄し、義経の郎党と景時父子が斬りあう寸前になった。合戦は源氏の勝利に終わり、平氏は滅亡した。

現代のわれわれが読むと、梶原景時の発言は間違っていないように思えますよね。

引き方を知らない船を、海戦は初めての義経が率いるなど、大ばくちだったでしょう。また、大将が先陣を務めるのも、危険すぎる手段です。どちらも、少しでも目算が外れれば損害が甚大な大敗につながったはずです。梶原景時はリスク管理を訴えた、といえるのです。
結果的に、義経軍が勝利し、梶原景時が笑いものになったというのが事実であったなら、景時の憤懣やるかたない思いも想像できます。

ことの次第を頼朝に随時報告した、梶原景時。「吾妻鏡」でも、梶原景時は頼朝に「薄氷を踏む思いであった」と報告しています。出し抜かれてくやしかったために讒言をした、とする「義経記」。しかし、組織を危険にさらした行為を、頼朝に報告した、と考える方が妥当なようです。

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義経が持てなかった、政治的視点

義経の奮闘によって平氏を滅ぼすことができたとしても、義経を許さなかった、頼朝。

「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」の下りで描写される、無謀な進軍や、大勢を省みない戦い方。これは、義経が兵法に則った戦略をもちいたのではなく、義経個人の能力だけを頼りに、アウトローな戦いを実践した、ということを示します。奇襲や火付けを連発する描写とも一致します。

そもそも、組織で動く、という意識が義経にはなかったようです。大将であれば、功を急いで御家人と争うのではなく、戦況をしっかり把握し指示を出し、御家人たちに功を競わせる立場のはず。しかし、義経は組織を危険にさらす行動ばかりしてしまったのです。

頼朝の許可なく、官位を朝廷から任官したことも、頼朝を頂点とする組織に自身がいる、ということを配慮しない行動でした。屋島の戦いに向う際も、頼朝に許可を取らず、後白河法皇に許可を得て出発。頼朝は追認した形でした。

組織としての危機管理や、鎌倉幕府の対朝廷の姿勢を理解しない義経は危険分子であると、頼朝は判断したのでしょう。「東国武士の従うべきは頼朝ただ一人であり、朝廷ではない。兄弟であっても、その主従関係は絶対である。」それは、朝廷から独立した勢力を築くうえで、重要なことでした。

しかし、義経はそんな兄の”政治的視点”にも気付いていませんでした。こうして、頼朝に、義経は疎んじられていったのです。

いかがでしたか?なぜ、頼朝が弟・義経を疎んじたのか、いくつかの考察をご紹介しました。義経は、彼をヒーローとして描いている「義経記」においてさえ、体力の限り急いで進軍し、追いつけない郎党はうち捨てたり、渡河の邪魔だからと民家を焼いたり、サイコパスとしてのエピソードに事欠きません。そんな、”無邪気なサイコパス”としての義経も物語の上では魅力的なのですが。

もし、自分が彼の近くで振り回される立場だったら、と考えると恐ろしいです。頼朝もそう感じたのかもしれませんね。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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