幼名を牛若といい、少年期は紗那王、元服してからは九郎義経と名乗った源義経。彼は数々の伝記や能・歌舞伎の演目でヒーローとして描かれました。
彼はそれ以前に戦の経験が無かったにも関わらず、源平の合戦において軍勢を率い、驚異のスピードで木曽義仲、平家の軍を打ち破り源頼朝に勝利をもたらしました。その人間離れした活躍と、後に兄・頼朝により滅ぼされた悲劇性とで長く語り継がれることとなります。
大河「鎌倉殿の13人」では菅田将暉さんが演じます。第8回の放送では、勝つために、手段を選ばないさまが、サイコパスのように描かれていました。そう、彼の強さの一要因は、ルールを持たない、既成概念の無い戦い方をしたことに、あるようです。魅力的な武将、義経について解説します。
末尾に、義経にまつわる年表も載せています。合わせてごらんください。
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宮中育ちの政治家・頼朝と、鞍馬山育ちの戦術家・義経
源義朝の子、頼朝と義経。二人の幼少期、少年期、青年期はどのようなものだったのでしょう。同じ源氏の棟梁の子でありながら、二人を取り巻く環境はまるで違うものでした。
母親の身分、生まれた時期の比較をすると、その対比がみえてきます。
義朝が平治の乱を起こすまでは宮中にも上がっていて、官位も与えられていました。父の宮中での立ち振る舞いや、政治的手腕を間近でみたことでしょう。
そして、義経が生まれた年は、平治の乱で父が敗れ亡くなった年でもありました。彼には、自身が父と過ごした記憶はありません。彼は、幼少期を京の市中や山科の預け先で過ごした後、11歳で(7歳という説もある)鞍馬寺へと預けられます。
このように、同じ源氏の棟梁・義朝の子であっても、二人の生い立ちには歴然とした違いがありました。
義経がなぜ、頼朝に疎んじられたのか、その辺りは以下の記事に書いています。
義経が武術を習ったという天狗、正体は?
鞍馬の天狗は、鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗です。別名、鞍馬山僧正坊。牛若丸に剣術を教えたという伝説で知られています。
写真は鞍馬寺の山門です。鞍馬山に多数の堂宇や神社が建てられています。鞍馬寺は千手観音、毘沙門天と並び、護法魔王尊を祀っています。この護法魔王尊、義経に武芸を教えた僧正坊のさらに上の地位の大天狗、なのだそう。
義経供養塔は鞍馬山にあり、牛若丸が起居した東光坊の跡地に建てられました。
武装した寺
以前比叡山延暦寺の紹介記事でも書いたように、平安時代の終わり頃には、寺は武装し僧兵が暴れまわる、ということが頻繁に起こっていました。
当時、お寺や神社は領地を所有し、その地の治安を維持し、荘園を経営していました。そして、国府や権門(官位の高い家)、在地領主と紛争を抱え、他勢力への対抗のため武装していました。これは、京都周辺に限ったことではありません。日本全国に、武装した寺社が存在しました。
平安時代末期には、強大な武力集団となり、特に、奈良の興福寺、東大寺、滋賀の園城寺、比叡山の延暦寺などは寺社同士の勢力争い、朝廷への強訴(ごうそ、徒党を組んで訴えること)を繰り返し行いました。比叡山延暦寺の僧兵が「日吉大社」の神輿を担いで入洛(京都に入ること)し、要求を通そうとした、という記録もあります。
僧兵は、寡頭(かとう・頭を包む布)高下駄・薙刀(なぎなた)を身に着けていたようです。ものものしいですね。
鞍馬の天狗 天狗の正体は僧兵?
さて、寺で仏教の教典を紐解き、静かに学問をするはずだった義経。しかし、当時は鞍馬寺は比叡山に属し親交も深く、武芸に通じた衆徒が多数いる場所だったのです。
義経が倒された源氏の棟梁の子であると教え、さらには兵法や武術を教えた者は、きっとこの地にいたのでしょう。平氏をよく思わなかった誰かが。
表向きは僧侶であり、堂々と武芸を授けるわけにはいかなかったその人物こそ、伝説の天狗・僧正坊の正体といえるでしょう。
様々な伝記に書かれた、鞍馬寺での義経
驚きの速さで、木曽義仲や平家を追討してしまったという事実があるのに、その兵法や武術の師が明確ではなかったために、このような天狗伝説となっていったのでしょう。
荒くれ者だが憎めない、武蔵坊弁慶
義経を庇護した僧兵たち
『義経記』には、武蔵坊弁慶についてその生い立ちから、義経と共に平泉で果てるまで描写されています。しかし、これは創作性が非常に高い書物。描写される弁慶も、母親のお腹に18か月いたとされるなど人間離れしています。この書物が成立したのも、南北朝時代から室町時代初期の間とされ、だいぶ後のこと。
時代の近い記録として弁慶の名があるのは、『平家物語』や『吾妻鏡』。『吾妻鏡』でも1185年11月、義経の義経郎党の一人として名が記されているのみです。実在したのかも明確ではないようですね。
頼朝から逃げる際、山伏の一行になりすますなどは、いかにも彼らが得意としそうな手段です。有名な「勧進帳」のような場面も本当にあったかもしれません。
『義経記』では、武蔵坊弁慶と並んで、常陸坊海尊(ひたちぼう かいそん)という悪僧も活躍します。弁慶と共に「殺生の好きな坊主が二人~」と表現され、頼朝に追われ逃れる大物ヶ浦での立ち回りでは、止めるよう言われても「聞こえぬふりで暴れておけ」と暴れまわります。
活き活きと描かれた、荒くれ者の僧兵たち。傍若無人なのに愛嬌溢れる姿。義経に仕える怪力無双の荒法師として、創作の世界で親しまれたのです。
天下の無法者、しかし後の世ではヒーローへ
義経は、頼朝とは兄弟とはいいながら、生まれ・育ちは対局的でした。義経が育ったのは、鞍馬に奥州。彼を庇護したのは、当時のアウトローの代表格、僧兵たちでした。そのような環境で、武勇の才覚を育んだ義経は、兄を源平合戦の勝者としてゆきます。しかし、頼朝の目指すものを、あるいは、組織としての鎌倉軍を、義経は理解しなかったのかもしれません。やがて、疎んじられ、追われる身となる義経。
人々を驚かせる活躍と、兄に滅ぼされる悲劇。このこともまた、義経の伝説をより魅力的なものとしました。『義経記』『源平盛衰記』といった後の書物は、彼を伝説のヒーローへと押し上げたのです。それらを題材とした数々の歌舞伎の演目も人気をはくしました。こうして、ヒーローとなった彼。しかし、組織の危機管理の面からは、そうとうリスキーな人物だったのかもしれませんね。
大河「鎌倉殿の13人」第8回、その天真爛漫とも、サイコパスともいえる描写は、これからの彼の活躍が楽しみになるものでした。おそろしい義経を、存分に堪能できそうです。
義経の生涯・年表
義経にまつわる事柄を年表にしています。
1159年 | 義経生まれる。12月、平治の乱 | |||||
1160年 | 1月 義朝殺害 3月頼朝、伊豆へ配流される。
自首した常盤は許され、貴族一条長成と再婚。今若・乙若・牛若は長成に養育され、今若は京都醍醐寺、乙若は近江園城寺、牛若は1169年11歳で鞍馬寺へ入れられた。 |
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1174年 | 義経16歳で鞍馬脱出
この、鞍馬脱出は様々な伝記に書かれ、事実であろうと思われる。しかし、ここから頼朝の元へ馳せ参じる1180年までは、確かな記録が無いようである。『義経記』では一度平泉を訪れ、しばらく滞在した後京へ戻っていたと書かれ、弁慶と出会い主従の関係となったのはこの頃とされる。 |
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1176年 | 源頼朝、政子と結婚 | |||||
1179年 | 11月 | 清盛のクーデター。後白河法皇幽閉される。 | ||||
1180年 | 4月 | 以仁王、行家を使者に平家追討の令旨を下す | ||||
5月 | 以仁王挙兵、以仁王・源頼政敗亡。 | |||||
8月 | 頼朝挙兵、石橋山合戦 | |||||
9月 | 木曽義仲、挙兵 | |||||
10月 | 富士川の合戦 頼朝、義経と対面 | |||||
1181年 | 閏2月 | 清盛、死去 | ||||
7月 | 頼朝、後白河法皇に和平を提案 | |||||
鶴岡八幡宮宝殿上棟式 馬の手綱のエピソード | ||||||
1182年 | 8月 | 頼朝嫡男・頼家誕生 | ||||
1183年 | 5月 | 木曽義仲、倶利伽羅峠の戦い。 | ||||
7月 | 平氏都落ち、義仲・行家入京。 | |||||
10月 | 閏10月以前、義経上洛を目指し、鎌倉を出立、伊勢に滞在。 | |||||
1184年 | 1月 | 頼朝の代官として、範頼・義経、義仲を討つ。 | ||||
2月 | 一ノ谷の合戦 | |||||
4月 | 木曽義高、殺害される。 |
1184年 | 8月 | 義経、左衛門少尉・検非違使に任官。 | |||
9月 | 義経、従五位下に叙位。左衛門少尉・検非違使留任。 同月河越重頼の娘(郷御前)と結婚。 | ||||
1185年 | 2月 | 屋島合戦 | |||
3月 | 壇ノ浦合戦 | ||||
4月 | 頼朝従二位に叙される | ||||
5月 | 頼朝、鎌倉に下った義経を冷遇。 腰越状のエピソード | ||||
8月 | 義経、頼朝の推挙で伊予守に就任するも、頼朝国務を妨害。 | ||||
10月 | 義経・行家挙兵。頼朝追討宣旨 | ||||
11月 | 義経・行家没落。頼朝に義経・行家追討宣旨が下される。北条時政、上洛。11月17日、金峯山寺に静がたどり着く。12月8日 静、京都にいた北条時政の元へ送られる。 | ||||
1186年 | 3月 | 静、頼朝の命で鎌倉へ。4月鶴岡八幡宮で「吉野山~」うたう。 | |||
1187年 | 義経、平泉に逃亡。 | ||||
1189年 | 藤原秀衡死去。 | ||||
閏4月 | 藤原泰衡、義経を殺害 | ||||
7月 | 頼朝、泰衡討伐に出陣。 9月平泉を征服、藤原氏滅亡。 | ||||
1190年 | 11月 | 頼朝上洛。 |
いかがでしたでしょうか。物語としての、『義経記』『源平盛衰記』もとても楽しい読みものですよ。ぜひ、読んでみてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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