アニメ「平家物語」第五話、どんどん展開が早くなってきましたね。物語が大きく動きます。足掛け2年ほどの内容が一話分に盛り込まれていました。順を追ってみていきましょう。
清盛、福原より数千騎の兵を率い入京
巻第三、「法印問答」より
訳文
「入道相国が、朝廷に報復なさるのであろう」
と言いひろめた。関白殿は内々お聞きになっていたことがあったのであろうか、急ぎ内裏へ参上されて、
「今度入道相国が入洛いたしますのは、まったくこの基房を滅ぼそうという御企てでございます。どのような憂き目に逢うことになりましょうか」
と奏上なさると、(高倉)天皇はたいそう驚かれて、
「そなたが憂き目にあうというのは、まったく自分があうことと同じである」
と言われて、御涙をおながしになったが、まことにおそれ多いことであった。
『平家物語』では、「聞えしかば」つまり風聞、としていますが、『玉葉』治承3年(1179年)11月14日の条に実際に武士数千騎で入洛、京中が騒がしくなったことが書かれています。
関白・基房は、巻第一で「これこそ平家の悪行のはじめなれ」と書かれた殿下乗合の条で、平家に報復をされた人物(資盛が馬の礼を取らなかったことに対し、資盛へ恥辱を与え、清盛の報復にあった人物)です。貴族勢力と、平清盛の間には長く対立があったことが伺えますね。
清盛の申し分
清盛の入洛に驚いた後白河法皇は静憲法印を使者に立てます。以下は静憲法印に対し、一つ、一つと、怒りの根拠を列挙する、清盛の言葉です。
巻第三、「法印問答」より
訳文
(略)
にもかかわらず、内大臣の中陰の間に、八幡への御幸があって、管絃の遊びも行われた。御嘆きの様子は一つもみえない。たとえ入道の悲しみに御同情なくとも、どうして内大臣の忠誠をお忘れになってよかろう。(略)父子ともに法皇のお気に召さぬということで、今になって面目を失ってしまった。これが一つ。(略)」
自分はいざ知らず、重盛は実務から、戦いを伴うトラブルの解決までを、身を粉にしてこなしたことをあげました。これには、なんの誇張表現もなかったでしょう。鹿谷の陰謀の件では、清盛自身の手からも、法皇を救っていた重盛。そんな嫡男・重盛に一目置いていたからこそ、清盛はこれまで法皇への怒りを抑えていたのです。
原文としては、一つ目だけ、紹介しましたが、二つ目以降は以下の通り。
次に挙がったのは、重盛の死(治承3年1179年7月または8月)の後、取り上げられた土地(知行国)についてでした。平家物語のこの条には越前国のことのみ記されましたが、娘・盛子が継いでいた藤原家の荘園についても、盛子の死(1179年6月)に際し、後白河法皇によって没収されています。これも、清盛の怒りの原因でしょう。
そして、次に挙げたのは人事について。清盛が推した基通ではなく後白河院が推した基房の子、7歳の師家が中納言になった件についてです。
さらに、最期に挙げたのが、鹿谷の陰謀についてでした。清盛は、謀反は後白河法皇の許しがあった上で行われた、ということを憤りをもって語りました。
まず挙げられたのが、重盛のことだった、というのが、心に迫る表現です。そして、やはり、鹿谷の陰謀の件、清盛は根にもっていました。
こうしてみると、清盛の怒りはもっともです。相手が皇室の人間である、その一点だけのために、この怒りさえ抑えなけらばいけない、というのが当時の価値観。清盛はそれを、覆す行動に出てしまうのですが、何だか、清盛に肩入れしたくなってしまいます。
物語の中でも、これらを伝え聞いた法皇は、入道相国(清盛)の申し分は、まったく道理にかなっていることだ、として何も言えなくなっているのです。
それは、そうでしょうね。
さて、抑えの効かなくなった、清盛。
本人が恐れていた通り、関白・基房は、このクーデターで官職を取り上げられ、追放となりました。空いた関白のポストには、摂関家(藤原家)ではあっても、清盛の娘婿・基通が就きました。関白、太政大臣以下、院の近臣39人が追放され、後白河法皇の幽閉も今回は、現実のこととなります。
空いた要職は平家一門の者へ引き継がれ、ついには安徳天皇の即位まで、清盛の裁断によってなされます。
そしてそのことが、次なる以仁王の挙兵へとつながっていくのです。
今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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