【平家物語】平家都落ち【アニメ8話】【平家家系図】

びわ 平家物語

北陸での敗戦は、平家を窮地に陥れました。木曽義仲に大敗したことが、負の連鎖の始まりとなったのです。図は、平家の家系図。見ながら読むと『平家物語』が分かりやすくなりますよ。クリックで拡大できます。

平家家系図 4

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主上都落

北陸で大敗し、逃げ帰った平家をさらに追い込んだのは比叡山に背を向けられたことでした。宗盛は都を離れる決断をします。この条では、平宗盛が都落ちを建礼門院徳子に伝える描写、そして、その夜には、後白河法皇が法住寺殿を離れたことが書かれました。後白河法皇もまた、平家を見限ったのです。

巻第七、「主上都落」より

巻第七 主上都落 

巻第七 主上都落 2

巻第七 主上都落 3

 同七月二十四日の夜も更けたころ、前内大臣宗盛公が、建礼門院のおられる六波羅殿に参って申されるには、
「この世の中の有様は、それでも打開の道はないかと望みをかけておりましたが、今はこれまでと思われます。ただ都の中でどのようにもなろうと、人々は申しあわせておりますが、目の前につらいありさまをお見せするのも残念に存じますので、院も主上もお連れ申して、西国のほうへ御幸、行幸なされるようお願いしたいと決意いたしました」
と申されると、女院は、
「今はただどのようにも、あなたの計らいにまかせましょう」
と言われて、御衣の袂にあまるほどの御涙をおさえかねておられる。大臣殿も、あふれる涙に、直衣の袖をしぼるばかりにお見えになった。
 その夜法皇を平家が内密にお連れして都の外へ落ちて行く企てがあるということをお聞きになられたのであろう、法皇は、按察使大納言資賢卿の子息、右馬頭資時だけを御供にして、ひそかに御所をお出になり、鞍馬へ御幸になった。だれもこれに気がつかなかった。
 さて、法皇が都の内におられないといううわさが伝わるやいなや、京中の騒ぎはひととおりではない。まして平家の人々のあわてさわがれるありさまは、たとえ家々に敵が討ち入ったとしてもそれには限度があるので、これほどのことはあるまいと思われた。このところ平家は、院も主上もお連れして、西国のほうへ御幸、行幸なされるよう用意をととのえてこられたのに、法皇はこのように平家をお見捨てになられたので、頼みにした木陰も雨がもるような、頼りない心地になられた。
「それではせめて行幸だけでもお願い申しあげよう」
と、午前六時ごろ、はやくも行幸の神輿を寄せると、主上は今年六歳、まだおさなくていられるので、なんのお考えもなくお乗りになった。御母建礼門院も同じ神輿にお乗りになる。内侍所、神璽、宝剣(三種の神器。八咫鏡やたのかがみ・八坂瓊曲玉やさかにのまがたま・天叢雲剣あめのむらくものつるぎ)をお移しする。
「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿なども持参しなさい」
と、平大納言時忠が指図されたが、あまりにあわてふためいて、とり残すものが多かった。
印鑰 天皇の正印と諸官庁の蔵の鍵
時の札 清涼殿の殿上の間の子庭にあって、時刻を掲示した札
玄上 皇室に伝わった琵琶の名器の名。
鈴鹿 皇室累代の和琴の名器。

『玉葉』7月25日条にも、この都落ちが記されました。清盛がいた頃には、何とかつなぎとめていた比叡山に背を向けられ、さらに後白河法皇も平家の元を去りました。平清盛には、クーデターを起こされ、幽閉されていた後白河法皇。平家を良く思わなくなっていて当然です。この法皇の離反は、法皇の院宣により、平家が朝敵とされる危険を意味します。平家の者たちが、非常にあわてた様が描かれているのも、誇張ではないでしょう。朝敵となっては、破滅への道筋が浮き彫りとなります。いくら天皇を擁しているといっても、安徳天皇はこの時まだ6歳。朝廷の実権は、この時後白河法皇にあったのです。

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維盛は妻子をおいて

巻第七、「一門都落」より

巻第七 一門都落 1

巻第七 一門都落 2

 

 さて、小松殿の公達は、三位中将維盛卿をはじめとして、兄弟六人、その軍勢千騎ばかりで、淀の六田河原で行幸に追いつき奉った。大臣殿は待ち受け申して、うれしそうに、
「どうしたか、今まで」
と言われると、三位中将は、
「幼い者たちがあまりに後を慕いますので、あれこれなだめすかしておこうといたしまして遅れました」
と申されたので、
「どうして心強くも六代殿をお連れなさらぬのか」
と言われた。維盛卿は、
「この先々も、頼もしくは思われません」
といって、問われてさらにつらさがまさり、涙を流されたのは悲しいことであった。
 落ちて行く平家の人々はだれだれであろうか。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位中将重衡、小松三位中将維盛、新三位中将資盛、越前三位通盛、殿上人では、内蔵頭信基、讃岐中将時実、左中将清経、小松少将有盛、丹後侍従忠房、皇后宮亮経正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、尾張守清貞、若狭守経俊、兵部少輔尹明、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、僧では二位僧都全真、法勝寺執行能円、中納言律師忠快、経誦坊阿闍梨祐円、侍では、受領、検非違使、衛府、諸司が百六十人、総勢七千余騎、これは東国、北国の度重なる戦いに、この二、三年の間に討ちもらされてわずかに残った人々である。

 

妻子との別れを惜しんで遅れた維盛を筆頭とする、重盛の子ら平家”小松殿の公達”6人は、淀で、徳子・安徳天皇の一団に追いつきます。他の平家の者たちが、妻子もつれていたのに対し、維盛は妻と幼い子を都に残しました。六代殿、と書かれているのは維盛の嫡男。当時10歳前後だったと書かれています。

維盛は自身と平家の命運を悟っていたのでしょう。

平家一門の中にも、離脱する者はあったようです。清盛の異母弟、頼盛は池の禅尼の子。池の禅尼が嘆願し、頼朝が生き延びた縁を頼り、離脱しました。しかし、離れる一門の者は少数でした。同族での対立の目立つ源氏に対し、平家は一門の結束は固く、一族が運命を共にして滅びてゆくのです。

 

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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