【平家物語】清盛、死す【アニメ7話】

びわ 平家物語

アニメ「平家物語」第7話後半、清盛が謎の熱病に倒れます。その体から発する熱はすさまじく、近づく者も耐え難く、水を直接流しかけてもおさまりません。

さらに、清盛の北の方、時子がみた夢には、恐ろしい使者があらわれました。

 

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清盛の死

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巻第六、「入道死去」より

巻第六 入道死去 1

巻第六 入道死去 2

訳文

 同月二十七日、前右大将宗盛卿は、源氏追討のために、東国へいよいよ出発するということであったが、入道相国が御病気になられたというので中止された。明けて二十八日から、清盛公が重病にかかられたと伝わって、京都中も六波羅も、
「それ、しでかしたぞ」
とささやきあった。
入道相国は、発病されたその日から、水さえ喉にお通しにならない。体内の熱いことは、火をたいているようである。臥しておられる所から四、五間の内に入る者は、暑さに耐えられなかった。ただ言われることは、「あた、あた」(あつ、あつの意)というばかりである。まったくただ事とはみえなかった。
比叡山から千手井の水を汲みおろして、石の槽(ふね)になみなみとたたえ、それにひたってお冷えになると、水ははげしく沸きあがって、たちまち湯となってしまった。もしかお助かりになられるかと、筧の水をひいてお体に流しかけたが、焼けた石や鉄にあたるように、水はほとばしって寄りつかない。たまたまお体にあたった水は、炎となって燃えたので、黒煙は御殿の思い知られ中にみちみちて、炎は渦を巻いて燃えあがった。
(略)
入道相国の北の方、二位殿が夢に御覧になった事は、まことに恐るべきことであった。はげしく燃えあがる猛火につつまれた車を、門の中に引き入れた。前後に立っている者はあるいは馬の顔のようなものもあり、あるいは、牛の顔のようなものもある。車の前には、無という文字だけが見える鉄の札が立ててあった。二位殿は夢の中の心で、
「あの車はどこから来たのか」
と御尋ねになると、
「閻魔の庁から、平家太政入道殿のお迎えに参りました」
と申す。
「それで、その札はなんという札か」
と問われると、
「南閻浮提の金銅十六丈の廬舎那仏を焼き滅ぼされた罪によって、無間地獄の底に落ちられることが、閻魔の庁において決定されましたが、無間の無が書かれて、間の字がまだ書かれないのです」
と申した。二位殿はめざめて、汗まみれになり、これを人々に話されると、聞く人はみな恐ろしさに身の毛もよだつ思いであった。
寺を焼いた清盛は、一番犯してはいけない罪を犯したこと、その報いで無間地獄へ堕ちることを「平家物語」は語っているのです。神仏への冒瀆、仏像の破壊は当時の価値観ではこの上のない、重い罪だと考えられていたのです。
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地獄の手引書『往生要集』

時子の夢にあらわれた、牛頭・馬頭(ごず・めず)とは、『往生要集』に記される、地獄の獄卒です。牛頭人身のもの、馬頭人身のものたちが、燃えあがる猛火につつまれた車で、清盛を迎えに来たと、描写されているのです。

この、地獄の概念は『往生要集』からきているもの。源信という僧の書いた『往生要集』は当時のベストセラーとでも表現すべき書です。それまで、限られた人にしかできなかった難しい修行をせずとも、どのようにすれば往生(仏となって輪廻の苦しみから抜け出すこと)ができるのか、について説いています。要約すると「心を清くし、静寂な境地で阿弥陀仏をイメージしながら念仏を称えること」が重要だと示されました。(参考 ねむれないほどおもしろい「地獄の世界」富増章成著)

しかしこの『往生要集』、行いの悪い者が堕とされる、地獄についての詳細過ぎる記述の方が印象的で、地獄の手引書、といった方があてはまりそうな書物でもあるのです。人気となった理由も、むしろこの地獄の描写があったからかもしれません。

「平家物語」のこの条では、清盛が苦しむさまは焦熱地獄のようである、とし、清盛が行く先は無間地獄である、としたのです。

焦熱地獄とは、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間の八大地獄の一つ。熱湯の大釜や、燃える鉄室で責め苦をうけるという炎熱の地獄。無間地獄は、八大地獄の最下位にある。七重の鉄城の内を火泉がほとばしり、沸銅が湧いて、罪人を焚焼するという地獄。

何とも、おそろしい、お迎えです。

もちろん、実際に人の体に水をかけて沸き上がったり、燃え盛ったり、などはあり得ません。物語の演出です。しかし、そんな死に方をするのも当然である、と当時の人々が考えるほど、清盛は当時の秩序にあらがい、驕りたかぶって、憎まれてしまったのですね。

傍若無人ではあっても、一族の地位を力強く引き上げ、先見の明もあり、優れた戦の大将でもあった清盛。彼無しで、平家一族は、立ち上がった地方豪族、特に坂東武士たちの頼朝軍や、信濃の木曽義仲を迎え打てるのでしょうか。

『玉葉』には1181年2月27日条に「禅門(清盛)、頭風を病むと云々」という記述があります。それはちょうど宗盛以下の軍勢が東国へ下向しようとしていた頃でもありました。閏2月4日条には「夜に入て、伝え聞く、禅門薨去すと云々」と記されています。東国を鎮めなけらばならない、まさにその時、平家は清盛というカリスマを失ってしまったのです。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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