大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する、後白河法皇。頼朝が朝廷と交渉する際は、この後白河法皇が主な相手でした。どうやら、この人物、一筋縄ではいかない交渉相手だったようです。頼朝に「大天狗」と言わしめた、後白河法皇について調べました。
後白河法皇(1127年~1192年)
散々な評価、しかし何度でも返り咲く法皇
後白河法皇の性質や、主な功績を挙げてみます。
1160年、日吉社・熊野社、勧請。以降熱心に熊野詣(熊野三山への参拝)を行う。最初の熊野詣では清盛も同行。熊野詣では34回ともいわれる。
1164年、蓮華王院(三十三間堂)造営。清盛が造営を行った。
1174年、滋子を伴って、安芸国厳島神社参詣。清盛も同行。
1185年、東大寺再建。大仏開眼供養、自ら開眼する。
蓮華王院(三十三間堂)
修学旅行で必ずコースに組み込まれるのではないでしょうか。あの三十三間堂は、後白河法皇の命で平清盛が造営しました。後白河法皇が院政を行った「法住寺殿」はこの辺り一帯に広がっていて、三十三間堂はその中に建てられたものでした。
比類少なき暗主?
天皇家兄弟間派閥争いである「保元の乱」は、父、鳥羽天皇の崩御により起こりました。後白河法皇は藤原信西(しんぜい)に擁され、平清盛、源義朝(頼朝の父)が味方となり勝利。敗北した兄の崇徳上皇は、讃岐国へ配流されました。
「和漢の間に比類少なきの暗主なり」
「保元の乱」で後白河を擁しながら、このように表現したのは藤原信西。御しやすい、と軽んじていたのでしょう。
後白河天皇は確かに、周りの情勢によってころころと態度を変え、言うことにも、人事にも一貫性はありません。今様への心酔ぶり、仏教信仰への傾倒もすさまじかったため、不安要素であったのでしょう。しかし本当に暗主、だったのでしょうか。
どうも、そういうわけではなさそうです。
人事に一貫性がない、それは後白河法皇の場合、時流を読む能力がしっかりしていたためでした。「勝てば官軍」の言葉通り、武力に頼まなくてはならない事案が多くある中、しっかり自分に組する勢力を認識し、行動しています。良い治世がしたい、といううようなポリシーや矜持は無さそうですが。
この乱世に、何度も返り咲き、朝廷の中心に居続けた法皇。時の権力者と、後白河法皇の関係に着目してみましょう。
平清盛と後白河法皇 利害の一致・不一致が全て
後白河法皇が平清盛と終始意見の一致を見たのは、外交でした。日宋貿易は二人によって活発になります。
蓮華王院(三十三間堂)造営など、仏寺についても、清盛の協力が必須でした。
寵愛していた平滋子の子、憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子にも、清盛の協力が必要でした。
そのようなときは、地位も与え、清盛が体調を崩すと着替えもせずに、見舞いに駆け付けました。
しかし、もともと、二条天皇が亡くならなければ後白河法皇を支持しなかったであろう清盛。比叡山延暦寺への対応の違いや、高倉天皇へ肩入れしだした平家の思惑もあり、次第に反目。ついには清盛に院政を停止されます。この時で、院政停止は二度目。
この時は時世が味方しました。高倉院政に移行するかにみえましたが、すぐ以仁王の挙兵を発端とし、平家打倒の気運が高まります。さらに高倉院崩御、清盛死去と平氏に不運が重なり出し、後白河法皇にはほくそ笑んだかもしれません。
1181年、清盛の弔いの折り、「今様乱舞の声」が法皇の居所から聞こえた、ですとか(『玉葉』)、「うれしや水、なるは滝の水」と舞い踊り、どっと笑う声がした(『平家物語』)などと記述されています。
見事なまでに、清盛への態度が変わっていますね。もともと、清盛に支持されていないことを重々知っていたのでしょう。利害が一致する場面で、頼りにはしても、内心は邪魔に思うことの方が多かったかもしれません。邪魔であっても、無視できないほどの権勢を平氏一門はもっていました。
1183年7月には、平氏の都落ちの意図を察知、比叡山に脱出。この時も、見事に自分の立ち位置を把握、平氏に背を向け、身の安全と、次の一手を見出しています。
暗愚などであるはずがありません。
源頼朝と後白河法皇 飴と鞭に翻弄される
では、後白河法皇と頼朝の関係はどのようなものだったのでしょう。
源平合戦のさなか、後白河院と頼朝は平氏追討という点では意見が一致していましたが、個々の人事になると双方の思惑に差がありました。頼朝は、朝廷ではなく、自分に忠実に従うことを、御家人や兄弟、同族に求めたかったのですから、当然です。
当初、自分の長年の重石、平家を破ってくれた頼朝に、後白河法皇は、期待をしていたようです。地位を上げ、知行国を与えます。しかし、こちらも手ごわい相手でした。
なかなか京に現れず、使者を立て、遠くからあれこれ言ってくるだけなのです。姿の見えない実力者の機嫌をうかがうのは、骨が折れたでしょう。木曽義仲の対応に手を焼き、さらに、義経と頼朝が不和となり、後白河法皇は巻き込まれる形で頼朝追討宣旨を出します。実際に目の前にいる、しかも京の治安を維持してくれた武士に迫られれば、仕方がなかったでしょう。
院周辺は頼朝の報復に怯えて戦々恐々となった。後白河院は頼朝に「行家義経の謀叛は天魔の所為」と弁明したが、頼朝は「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」と厳しく糾弾する。『吾妻鏡』意訳
頼朝の「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」という糾弾は、この場面においては少しかわいそうに思えますね。まるで、遠方からの飴と鞭、その”鞭”がとんでくるようです。
すぐに頼朝の義父、北条時政の軍勢が京に入って、交渉、
などを頼朝方が勝ち取ります。
しかし、後白河法皇を”大天狗”と評した頼朝の言葉はあながち、間違ったものではありませんでした。後白河法皇は、巻き返しに転じます。
熊野詣の費用を捻出するよう北条時政に院宣を下したり、人事をいじりなおしたり、九条兼実の摂政就任を求める頼朝に対して後白河院は近衛基通擁護の姿勢を貫いたり(摂政は九条兼実となるが摂関家領は基通が家領の大部分を継承することで決着が着いた。近衛家・九条家が名実共に成立する。)なかなかしぶといのです。頼朝が東国領内の対応に追われていることも計算に入れていたのでしょう。
平氏と過ごした半生も、源氏と渡りあう終盤も、ぬらりぬらりと、自分の要求を通していきます。
その後、鎌倉幕府側も歩み寄り、朝幕関係は改善。
奥州合戦の後、ついに頼朝が上洛しました。見えない相手に翻弄されていた後白河法皇に、飴と鞭の”飴”が示されます。
1190年 11月7日、頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛
『愚管抄』によると、頼朝が後白河院に「君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思候(法皇の事を自分の身に代えても大切に思っています)」と表明し、その証拠として朝廷を軽んじる発言をした功臣・上総広常を粛清したことを語ったといいます。
13日、頼朝は後白河院に砂金800両・鷲羽2櫃・御馬100疋を進上、19日と23日には「御対面数刻に及ぶ」「終日御前に候ぜしめたまふ」と長時間の会談がありました。
頼朝の在京はおよそ40日間でしたが、後白河院との対面は8回を数えました。
甘い言葉と、贈り物、御殿の再建までも、頼朝によってもたらされます。
この40日の間の8回の対面は、大きな効果を生みました。後白河法皇はいそいそと、権大納言・右大将両官の官位を与えます。頼朝は権大納言・右大将両官を辞任しますが、権威誇示に利用しました。朝廷は、どのような官位を与えるか、とのような官位なら頼朝が満足するのか、真剣に考えざるを得ません。頼朝が征夷大将軍として朝廷から独立した権力をもち、幕府が京都以外で日本全国の政治を行う流れは、この時、決まりました。
頼朝とその宿老たちの演出・策が一枚上手ではありましたが、後白河法皇の立ち居振る舞いも、なかなかに巧妙ですよね。
頼朝に「大天狗」と言わしめた法皇
いかがでしたか?知れば知るほどに面白い人物ですよね。
後白河法皇は政治的な方針には、こだわりや一貫性がありませんが「すきあらば自分が影響力を持ちたい」という点では一貫しています。
仏教を熱心に信仰したこと、今様に心酔したこと等「自分のやりたいこと」はしっかりぶれずに、持ち続けていました。
これらの、やりたいことを芯に持ちつつ、自身の置かれた立場が刻々と変わるこの時代の朝廷で、誰を味方に、誰に気を使って立ち振るまうか。それは、天皇家に生まれても必要なスキルでした。そして、彼の立ち回りは不思議なほど上手くいっています。
バカにされつつ、擁されていることは、知っていたかもしれません。そのことを、一々あげつらっていては、危険だったのかもしれません。うっとおしい相手でも、「利害が一致する間はにこやかに付き合う」それが後白河法皇です。
何度も権力の座に返り咲き、自分の要求を通しては、各地へ旅行もし、寺社を建て、今様を謡い、幸せな晩年を勝ち取ったのです。まさに大天狗、彼こそが勝者であったかもしれません。
「鎌倉殿の13人」では後白河法皇を西田敏行さんが、後白河法皇の寵姫で、頼朝方との交渉役としても活躍した丹後局を鈴木京香さんが演じます。どんな怪演がみられるでしょう。楽しみでなりません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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