大河「鎌倉殿の13人」第16回。さあ、義経、待ちに待った戦いの時です。京で義仲を討った「宇治川の戦い」から、そう間もなく、平家の追討へと向かった義経・範頼の軍勢。まずは、「三草山の戦い」そして「一ノ谷の戦い」が行われます。
図はクリックで拡大できます。
図では大まかな進軍の経路を載せています。②「三草山の戦い」③「一ノ谷の戦い」と、⑤「屋島の戦い」⑥「芦屋浦の戦い」⑦「壇ノ浦の戦い」の間には、義経は京、範頼は鎌倉に、それぞれ戻っています。連続して進軍していた、というわけではありません。
ここでは『平家物語』に書かれている、「三草山の戦い」「一ノ谷の戦い」この二つの戦いを分かりやすく、紹介します。
「宇治川の戦い」義経の動きについて→
夜討ちが決行された三草山の戦い
1184年、2月4日。
播磨国三草山で起こった一ノ谷の合戦の前哨戦。義経vs平資盛。休息していた平家軍に源氏軍が夜襲を仕掛け勝利。
このとき、義経は灯りをとるために、民家や野山に火をつけ進んだと『平家物語』には書かれます。夜襲の際には、付け火はあることだった、とはいえ、手段を選びませんね。
平氏方の、資盛、有盛、忠房は高砂より海路で屋島に渡り、師盛は福原の平家本体へ戻りました。資盛、有盛、師盛、忠房は、清盛の孫、重盛の子で兄弟です。兄弟共に行動していたことが分かりますね。(記事最後に、平家の家系図も載せています。)
”逆落とし”を決行した一ノ谷の戦い
1184年2月7日、摂津国福原と須磨で起こった、平宗盛vs源範頼・義経の戦い。
図は三草山の戦い、一ノ谷の戦いの経過を表したものです。
こちらは、『平家物語』における進軍の経路を『玉葉』の記述を元に再構成した経路図です。多田行綱の進軍は、義経軍から分かれた説、範頼軍から分かれた説、があるようです。
範頼は東から
範頼の軍勢は、京都を向いている東の生田口を攻めると決まりました。『平家物語』によると5万の軍勢です。梶原景時もこの軍にいました。「梶原の二度掛け」などの名場面を演じます。
義経は軍勢を分け、自らは山手へ。「鹿が通れるなら~」
三草山方面から回り込んだ義経軍は、まず、土肥実平の軍勢7000騎を西の塩屋口に向かわせます。『平家物語』ではこのとき、熊谷直実父子と、平山季重は義経の軍から勝手に離れ、塩屋口方面から一番に戦いに乗り込む、先陣争いをした、とされます。続く形で、土肥実平軍が、なだれ込んだのです。
そして、義経率いる3000騎が行ったのが、”逆落とし”。これは、鵯越として有名ですが、正確には鉢伏山の位置なのだそう。一ノ谷のうしろにそびえる急こう配を、義経は駆け下ったのです。
「鹿のかよはう所を馬のかよはぬやうやある」「鹿が通える所を馬が通れないことはない」というセリフもすごいですね。そして、
「馬どもおといてみむ」「馬どもを駆け下ろさせてみよう」
「馬どもはぬし〳が心得ておとさうには損ずまいぞ。くはおとせ。義経を手本にせよ」「馬どもはそれぞれの乗り手が注意して駆け下りるならば傷つくことはあるまい。それ、かけ下れ、義経を手本にせよ」
こうして、3000騎が鬨の声をあげながら、駆け下りたのです。自ら先頭に立って進む義経。彼の自身の技術への自信が、際立ちます。
これらは、『平家物語』から読み取れる、「一ノ谷の戦い」。もちろん、史実そのものというわけではないでしょう。しかし、義経の機転と、無謀ともいえる策、驚く平家の軍勢という構図は鮮やかです。大写しの進軍の様子、個々の戦いの描写、様々に視点を移しながら、『平家物語』は読者(あるいは聞き手)を惹きつけます。
多くが討たれ、敗走する平家
この戦いで、塩屋口を守った平忠度(ただのり)は討死。夢野口を守った、通盛も討たれます。生田口では、平重衡が生け捕られます。教盛(のりもり)の末子業盛は討死、知盛の子、知章も父を助け討死。故・重盛の末子師盛も逃げる際に討たれます。そして、熊谷直実に平敦盛が討たれた下りは、『平家物語』でも美しく描かれていることで有名です。敦盛の父、経盛、兄の経正・経俊も討たれました。
平家方の家系図。クリックで拡大できます。参考に御覧下さい。
平敦盛の最期、原文で紹介した記事→
今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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