【鎌倉殿の13人】不動明王に守られた?!謎の僧【文覚】

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文覚 荒行 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

源平合戦において、頼朝の挙兵のきっかけをつくったのは誰だったのでしょう。そこには数々の思惑がからんでいました。まずは頼朝本人の御家再興の想い。そして関東の土地を平家の圧政から守りたい、関東武士たちの想い。平家と利害が一致しなくなった後白河法皇の打倒平氏の想い。この後白河法皇もまた、キーパーソンの一人でしょう。彼が頼朝に何らかの形で密旨を届けていたかは、非常に気になるところです。

さて今回はもう一人、この密旨をめぐって伝説的なエピソードをもつ僧、文覚について、ご紹介します。

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後白河法皇の密旨はあったのか?

後白河法皇と平家の対立

「吾妻鏡」によると、頼朝が挙兵する直前、三浦義澄、千葉胤頼が頼朝を訪ねています。この前後に、三善康信からは「奥州へ逃げる」ことを勧める知らせが来ています。頼朝が、ここであえて”挙兵”を選んだ背景には、三浦義澄、千葉胤頼の訪問が関係しているようです。

時系列を追ってみます。時は平家が全盛の頃。しかし、平家と利害が一致しなくなった後白河法皇は平家に反感を持ち、虎視眈々と平家を失脚させる機会をうかがっていたようです。

1177年6月、鹿ケ谷事件 平家打倒を図った後白河院の近臣捕らえられ処分
1179年11月、清盛クーデターを起こす。後白河院、院政を停止され幽閉される
1180年4月、以仁王(後白河院の子)、平氏追討令旨を出す
1180年5月、以仁王挙兵。以仁王・源頼政敗亡
1180年6月、京都の三善康信から、以仁王の令旨を受けた者への平氏による追討が確実であるとして、奥州への亡命を勧める知らせを受ける。
「吾妻鏡」によると、1180年6月24日、頼朝挙兵を決断
「吾妻鏡」によると、6月27日京都で大番役を終えた、三浦義澄、千葉胤頼の二人が伊豆の頼朝を訪ねる。

もし密旨が存在するならば、彼らが後白河の密旨を伝えた可能性はあるでしょう。

「吾妻鏡」では、頼朝の挙兵の決断は、この訪問より早いことになっていますが、実際は、後白河上皇の密旨が伝えられ、挙兵を決断したということかもしれません。三善康信の勧めたのは逃亡であり、平氏の勢力が全盛であった当時、さすがに根拠を持たない挙兵は無謀だったでしょう。

文覚とは、誰か

「平家物語」にはもう一人、頼朝挙兵の動機をつくったとされる興味深い人物が出てきます。文覚という、謎めいた人物。

謎の男、文覚 「平家物語」では、平氏打倒を命じる後白河の秘密の院宣が、伊豆の流人であった文覚によって頼朝にもたらされたことが、挙兵の要因とされています。物語では、文覚の超人的な行動で福原に幽閉されていた後白河法皇から院宣を得たことになっているのです。

虚実入り乱れる平家物語にみる、文覚

「平家物語」巻第五

文覚についての記述があるのは「平家物語」、巻第五です。巻第五は、平清盛による、福原への遷都「遷都」から、平家を怯えさせた物の怪騒動「物怪之沙汰」、頼朝挙兵の急を伝える「早馬」、様々な謀反の事例と顛末を挙げた、「朝敵揃」「咸陽宮」、文覚の登場と彼の伝説的な行状を描く「文覚荒行」「勧進帳」「文覚被流」文覚が後白河法皇の密旨を持ち帰る「福原院宣」、京方からみた富士川の戦いを描く「富士川」、「都帰」、「奈良炎上」などの段から構成されます。

文覚が登場する段を、はしょってご紹介しましょう。はしょってもかなりの長さがあります。

「文覚(文学)荒行」

文覚の登場、そして彼の常人離れした修行の様子が語られる段です。

『彼文覚と申は、もとは渡辺の遠藤左近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。』

文覚は、武者所に仕える武者(北面の武士)で、後白河法皇の同母姉・上西門院の衆、つまり、上西門院の雑事係でした。この部分は、創作の多い平家物語でも事実と思って良いようです。(父親が誰であったかは、書物により異なる記述があります。)彼は19の年に、出家します。

ここからは、伝説のようなエピソードが展開されます。

「修行はどれほどのつらさか、試してみよう。」と8日間、山のなかで暑さと毒虫の中寝そべり続け、「この程度か、では容易なことだ」と本格的な修行へ向かいます。
熊野の那智の滝に、『行の心みに、聞こゆる滝にしばらくうたれてみんとて』つまり小手調べに、滝行を始めます。12月、雪が降り、滝につららがあるような極寒で、滝つぼにおり、首のところまで水につかります。そして、延々と不動明王への呪文を唱え続ける、というのが彼の試みた修行でした。それも、21日、滝にうたれ続けようとしたようです。

修行の描写を原文から抜粋します。

『四五日にもなりければ、こらへずして文覚うきあがりにけり。数千丈みなぎり落つる滝なれば、なじかはたまるべき、さッとおし落とされて、かたなのはのごとくに、さしもきびしき岩かどのなかを、うきぬしづみぬ五六町こそ流れたれ。時にうつくしげなる童子一人来ッて、文覚が左右の手をとッてひきあげ給ふ。人寄得の思ひをなし(人々は奇妙な思いをし)、火をたきあぶりなンどしければ、定業ならぬ命ではあり(まだ寿命ではないので)、ほどなくいき出にけり。文覚すこし人心ち出で来て、大のまなこを見いからかし、「われ此滝に三七日(21日間)うたれて、慈救の三洛叉(30万遍となえる)みてうど思ふ大願あり。けふはわづかに五日になる。七日だにも過ぎざるに、なに物かこゝへはとッてきたるぞ」と言ひければ、見る人身のけよだッてもの言はず。又滝つぼに帰り立ッてうたれけり。
第二日といふに、八人の童子来ッてひきあげんとし給へども、さんざんにつかみあうてあがらず。三日といふに、文覚つひにはかなくなりにけり。滝つぼをけがさじとや、みづらゆうたる天童子二人、滝のうへよりおりくだり、文覚が頂上より、手足のつまさき、たなうらにいたるまで、よにあたゝかにかうばしき御手をもッて、なでくだし給ふとおぼえければ、夢の心ちしていき出でぬ。「抑いかなる人にてましませば、かうあはれみ給ふらん」ととひたてまつる。「われはこれ大聖不動明王の御使に、コンガラ・セイタカといふ二童子なり。「文覚無上の願をおこして、勇猛の行をくはたつ。ゆいてちからをあはすべし」と、明王の勅によッて来れる也」とこたへ給ふ。文覚声をいからかして(荒々しくして)、「さて明王はいづくに存ますぞ」「兜率天に(弥勒の浄土に)」とこたへて、雲井はるかにあがり給ひぬ。』

 

登場してくる童子たちは、不動明王の眷属である八人の童子です。「文覚がこの上もない発願をして勇猛な修行を企てている。行って合力せよ」との明王の勅命に従って来たのです。
一度は流され死にかけた文覚を引き上げ、一度は『はかなくなりにけり』つまり死んでいる文覚の息を吹き返させたわけですね。

文覚は、不動明王に見守られていることに自信をもって、さらなる修行を続けます。

『まことにめでたき瑞相どもありければ、吹きくる風も身にしまず、落ちくる水も湯のごとし。』

となり、21日間の滝行をやり遂げ、さらに修行の本番とばかりに熊野に千日こもり、その後日本全国の霊峰12か所を修行して回るのです。

『日本国残る所なく、おこなひまはッて、さすが尚ふる里や恋しかりけん、宮こへのぼりたりければ、凡(およそ)とぶ鳥も祈落す程のやいばの験者とぞ聞えし。』

かくして、文覚は刀の刃のように鋭い効験をあらわす修験者と言われるようになった、とあるのです。

文覚

「勧進帳」

都での、文覚の主な行動は、押し借りのような寄付集めだったようです。この段には後白河法皇の元へ向かった様子が描かれます。

神護寺の修繕を目指した文覚が、法住寺殿の後白河法皇に、寄進を訴えます。しかし、さすが

『文覚は天性不敵第一のあらひじりなり。』

生まれつき不敵この上ない、粗暴な修行者と、表現される文覚。
口上と勧進帳を読み上げたあとのその態度は、まるで強盗のようなのです。左の手には勧進帳、右の手には刀を抜いて走り回りました。後白河法皇の御遊を大いに荒らした様が描かれます。

「文覚(文学)被流」

前章の流れから、捕らえられ、流刑が決まるまでの文覚が語られる段。

御遊の場は騒ぎとなり、乱闘となり、複数の者に抑えられた文覚ですが、ますます悪口を言い募り、検非違使に引き渡されてなお次のような捨て台詞。

『黄泉の旅に出でなん後は、牛頭馬頭のせめをばまぬがれ給はじ物を』

「死後の世界へ旅に出られた後は、地獄の獄卒の攻めをお逃れにはなれないものを」という意味です。

一度は恩赦で許されますが、やはり寄付を求め、

『さらばたゞもなくして、「あつぱれこの世の中は、只今乱れ、君も臣もみなほろび失せんずる物を」なンどおそろしき事をのみ申ありくあひだ(略)、伊豆国へぞ流されける。』

それならそれで普通のやり方でやればよいのに、まともな方法ではなく「この世の中は、ただ今にも乱れ、君も臣もみな滅びようとしている」など恐ろしいことばかり言うので、とうとう伊豆へ流罪になりました。

それにしても、文覚といい、弁慶といい、僧や修行者は、この時代、何とも恐ろしい荒くれ者として描かれます。僧兵が強訴を繰り返した時代、このような姿が、僧に対する人々の共通認識だったのかもしれません。

「福原院宣」

この段では、肝心の、文覚が頼朝に平氏に対し戦いを起こすよう申し勧めるくだりが出てきます。

『(略」今は源平のなかに、わとの程将軍の相持ッたる人はなし。早く〱謀反おこして、日本国従へ給え」。兵衛佐(頼朝)、「思ひもよらぬ事の給ふ聖御坊かな。われは故池の尼御前に、かひなき命をたすけられたてまッて候へば、その後世をとぶらはんために、毎日に法華経一部転読する外は他事なし」とこその給ひたれ。文覚重ねて申けるは、「「天のあたふるをとらざれば、かへッて其とがをうく。時いたッておこなはざれば、かへッて其殃(わざわい)をうく」といふ本文あり。かう申せば、御辺の心をみんとて申なンど思ひ給か。御辺に心ざしのふかい色を見給へかし』

文覚は、頼朝が将軍の相を持っている、さらに、天下を取るのは天が与えた運命である、それに逆らうべきではないと漢籍を引き合いに、強く訴えています。
そんなやり取りの後、文覚は懐から、白い布に包んだ髑髏を取り出すのです。それを、〈頼朝の父、義朝の頭である、平治の乱後、獄舎の前で拾い弔いながら持っていた〉と言い出すのです。頼朝は、その首が本当に父の首とは思わなかったようですが、(一定とはおぼえねども、確実とは思わないけれども、とある)文覚とは打ち解けた話を進めます。

『抑(そもそも)頼朝勅勘をゆりずしては、争か(いかでか)謀反をばおこすべき』

つまり、天皇にまず許されなければ、と頼朝が気にしているのですね。それに対し、文覚は、〈私がすぐに都(福原の新都)へ行って、後白河法皇に許しを請います〉と出発します。

文覚は『都合七日八日には過ぐべからず』7、8日で行ってくる、という当時としては無謀な日程を頼朝に宣言しています。自身も流罪の身であり、山籠もりの修行のふりをして抜け出したという訳です。そして八日で帰りつき、後白河の秘密の院宣をさし出すのです。

『(略)勅宣の意趣をまもッて、はやく平氏の一類を誅して、朝家の怨敵をしりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継、類祖奉公の忠勤を抽て、身を立て家をおこすべし。(略)』

後白河法皇からは、源氏の家に代々伝わる武芸の道、忠実な奉仕の心をもって、平家一族をしりぞけよ、との院宣を受け取った、となっています。頼朝は石橋山の戦いからこの院宣を捧げ持っていた、というのが平家物語における、源平合戦の始まりです。

流石に、常人離れしたこの行動は「平家物語」の創作でしょう。移動の日数は無理がありますし、幽閉の身であったことでいっそう、後白河法皇の外部との接触は難しかったでしょう。そもそも皇族に取次を頼んですぐ会えたわけがありません。しかし、「平家物語」に描き出された文覚は何とも押し出しが強く、自我も強く、行動力があります。こんなこともやってのけそう、と読者をわくわくさせてくれます。彼の大願は自分の寺の再興であり、信仰そのものです。それを援助しない平家は彼にとっては宿敵となった、と「平家物語」では解釈できます。

寺 巻物

実在の、文覚

摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。

京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。 のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。 (ウィキペディアより)

上記は『平家物語』『日本外史』『玉葉』『愚管抄』『吾妻鏡』などを根拠として編集されているようです。

『玉葉』によれば、頼朝が文覚を木曽義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたと言う。<巻三十八 寿永二年(1183)九月二十五日: 伝聞、頼朝、文覚聖人を以て、義仲等を勘発せしむ云々。是れ追討懈怠、並びに京中を損じるの由云々、即付件聖人陳遣云々。>

 

『愚管抄』には、乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれ、また、文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとする。<巻六:文学ハ行ハアレド学ハナキ上人也。アサマシク人ヲノリ悪口ノ者ニテ人ニイハレケリ。天狗ヲ祭ルナドノミ人ニ云ケリ。>

<巻五:文覚トテ余リニ高雄ノ事ススメスゴシテ伊豆ニ流サレタル上人アリキ。ソレシテ云ヤリタル旨モ有ケルトカヤ。但是ハ僻事也。・・・四年同ジ伊豆国ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル。>

『玉葉』は時の太政大臣まで登った九条兼実による詳細な日記、『愚管抄』はその弟、慈円が著しました。二人とも、リアルタイムで記録を残しているわけです。複数の書物に登場することからも、文覚自身は実在した僧で、京都から配流され、頼朝との親交があったと言えるでしょう。

京にいた頃、後白河院の同母姉、上西門院の側近だった文覚。後白河法皇に近しい時代があったことも、事実のようです。慈円はことのほか、文覚を嫌っているようですが、京にいる頃、直接関わったことがあるのかもしれませんね。

頼朝挙兵の数日内に、頼朝を訪ねた千葉胤頼は後白河法皇の同母姉上西門院の側近で、文覚と深い所縁を有していました。(文覚もかつて上西門院の側近でした)文覚の超人的な行動は創作にしても、文覚と繋がりのあった千葉胤頼を通じて、頼朝に密旨が届いていた可能性はあります。

伝説に彩られた”頼朝挙兵”

「源平合戦」の実際の戦いの契機をつくったのは、平氏の支配(朝廷の支配)に反発した、三浦義澄、北条時政ら在地領主である武士たちと、たまたま平氏と利害が一致しなくなった後白河院でしょう。

直接的には、京都の情勢を伝え続けた、三善康信の知らせが急を告げ、京都から帰ったばかりの三浦義澄、千葉胤頼が挙兵を促したと推測できます。

そこに、後白河院の密旨があった確証はありませんが、用意周到な頼朝のこと。戦いの大義名分は欲しかったでしょう。彼が挙兵を決断した裏には三浦義澄、千葉胤頼が伝えた後白河院の密旨があったのではないでしょうか。

そこに、「平家物語」は、文覚という超人を配し、物語を盛り上げました。後白河院の同母姉、上西門院の側近だった文覚は打ってつけだったのでしょう。実際には、文覚は伊豆にいて、後白河院の密旨を伝える術はありません。それをやってのけるという、何とも面白い、伝説としたのです。

いかがでしたか?大河「鎌倉殿の13人」では、市川猿之助さんが文覚を演じます。三谷幸喜さんの演出が楽しみですね。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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