1180年、頼朝の挙兵の際には、後白河法皇から頼朝に宛てた密旨があったかもしれません。さて、この密旨あったとすれば、誰が届けたのでしょう。
「平家物語」では、後白河法皇の密旨を文覚という僧が届けたことになっています。「鎌倉殿の13人」では市川猿之助さんが演じます。第3話から登場するようですよ。
髑髏をふところに、頼朝を説得!?
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文覚は、頼朝が将軍の相を持っている、天下を取るのは天が与えた運命である、それに逆らうべきではないと漢籍を引き合いに強く訴えています。その話の流れの中、文覚は懐から白い布に包んだ髑髏を取り出します。それを、「頼朝の父・義朝の頭である。平治の乱後、獄舎の前で拾い弔いながら持っていた」と言い出すのです。
これに対し頼朝は『一定とはおぼえねども』確実とは思わないけれども、文覚とは打ち解けた話を進めます。
髑髏とは!しかも十年以上抱えて過ごしたというのです。何ともすごい演出です。
しかも、頼朝は信じてはいない様子。じゃあ、その十何年もっていた髑髏は誰?となりそうですが、そこは落ち着いたもの。頼朝は父の話が出た懐かしさに涙を流し、文覚と話しこんでしまいました。父の髑髏ではないだろうと思っていて、なぜ?というツッコミをいれたくなりますね。
わけがわかりませんが、文覚がそれほど真剣な気持ちであることは、伝わったようです。なんなら、頼朝は挙兵はもう決めていて、文覚に上手く動いてもらおう、という計算をしたのでしょうか。そう読めばまだ、納得できます。
その後、天皇にまず許されなければ、と頼朝が気にしている描写があり、それに対し文覚は「私がすぐに都(福原の新都)へ行って、後白河法皇に許しを請います」と出発します。
文覚は7・8日で行ってくる、という当時としては無謀な日程を頼朝に宣言しています。自身も流罪の身であり、山籠もりの修行のふりをして抜け出したという訳です。そして八日で帰りつき、後白河の秘密の院宣をさし出すのです。
流石に、常人離れしたこの行動は「平家物語」の創作でしょう。移動の日数は無理がありますし、幽閉の身であったことでいっそう、後白河法皇の外部との接触は難しかったでしょう。そもそも皇族に取次を頼んですぐ会えたわけがありません。
しかし、「平家物語」に描き出された文覚は何とも押し出しが強く、自我も強く、行動力があります。こんなこともやってのけそう、と読者をわくわくさせてくれます。彼の大願は自分の寺の再興であり、信仰そのものです。それを援助しない平家は彼にとっては宿敵だった、と解釈できます。
修行時代から超人的、文覚
もう少し、平家物語での文覚を読んでみましょう。文覚についての記述があるのは「平家物語」巻第五です。巻第五の中から文覚が登場する段を、ご紹介します。
「平家物語」巻第五『文覚荒行』では文覚の登場、そして彼の常人離れした修行の様子が語られます。
文覚は、武者所に仕える武者(北面の武士)で、後白河法皇の同母姉・上西門院の衆、つまり、上西門院の雑事係でした。この部分は、創作の多い平家物語でも事実と思って良いようです。(父親が誰であったかは、書物により異なる記述があります。)彼は19の年に、出家します。
ここからは、伝説のようなエピソードが展開されます。
「修行はどれほどのつらさか、試してみよう。」と8日間、山のなかで暑さと毒虫の中寝そべり続け、「この程度か、では容易なことだ」と本格的な修行へ向かいます。
熊野の那智の滝で、小手調べにと滝行を始めます。12月、雪が降り滝につららがあるような極寒で、滝つぼにおり首のところまで水につかります。そして、延々と不動明王への呪文を唱え続ける、というのが彼の試みた修行でした。それも、21日間滝にうたれ続けようとしたようです。
修行の描写を原文から抜粋します。
この段で登場してくる童子たちは、不動明王の眷属である八人の童子です。「文覚がこの上もない発願をして勇猛な修行を企てている。行って合力せよ」との明王の勅命に従って来たのです。
一度は流され死にかけた文覚を引き上げ、一度は『はかなくなりにけり』つまり死んでいる文覚の息を吹き返させたわけですね。
文覚は、不動明王に見守られていることに自信をもって、さらなる修行を続けます。
かくして、文覚は刀の刃のように鋭い効験をあらわす修験者と言われるようになった、とあるのです。
この後、都へ移った文覚は、押し借りのような寄付集めをします。後白河法皇の元へ押しかけた様子を描く「勧進帳」では『文覚は天性不敵第一のあらひじりなり。』生まれつき不敵この上ない、粗暴な修行者と書かれ、ついにはやり過ぎて伊豆へ流罪となります。こうして、頼朝とのつながりができるのですね。
それにしても、文覚といい、弁慶といい、僧や修行者はこの時代何とも恐ろしい荒くれ者として描かれます。僧兵が強訴を繰り返した時代、このような姿が、僧に対する人々の共通認識だったのかもしれません。
実在の、文覚
文覚について書かれた文書には『平家物語』『日本外史』『玉葉』『愚管抄』『吾妻鏡』などがあります。
『平家物語』ではあまりに人間離れした描写だった文覚。しかし『玉葉』は時の太政大臣まで登った九条兼実による詳細な日記、『愚管抄』はその弟・慈円が著しました。二人とも、リアルタイムで記録を残しているわけです。複数の書物に登場することからも、文覚自身は実在した僧で、京都から配流され、頼朝との親交があったと言えるでしょう。
伝説に彩られた”頼朝挙兵”
頼朝挙兵の直接のきっかけは、京都の情勢を伝えた三善康信の知らせと、京都から帰ったばかりの三浦義澄・千葉胤頼が挙兵を促したこと、と推測できます。
そこに、後白河院の密旨があった確証はありませんが、用意周到な頼朝のこと。戦いの大義名分は欲しかったでしょう。彼が挙兵を決断した裏には三浦義澄・千葉胤頼が伝えた後白河院の密旨があったのではないでしょうか。
そこに、「平家物語」は、文覚という超人を配し、物語を盛り上げました。後白河院の同母姉、上西門院の側近だった文覚は打ってつけだったのでしょう。実際には、文覚は伊豆にいて、後白河院の密旨を伝える術はありません。それをやってのけるという、何とも面白い伝説としたのです。
いかがでしたか?三谷幸喜さんの演出が楽しみですね。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
耳で聞く、読書はいかが?
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