鎌倉幕府の二代目執権、北条義時。大河「鎌倉殿の13人」では、小栗旬さんが主人公として演じます。北条政子の弟で、三谷幸喜さんの例えでいえば、北条政子が「サザエさん」義時は「カツオくん」。義時は時流が合致しなければ、ただ関東の一武士に過ぎませんでした。しかし、時流と彼の才覚はピタリと合致。姉・政子というカリスマも、常に義時の味方でした。
基本情報
正室 姫の前
側室 阿波局(義時の兄弟にも阿波局という人がいる)
継室 伊賀の方
子 泰時、朝時、重時、有時、政村、実泰、一条実雅室
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父に学んだ策謀と頼朝に学んだ政治手腕
父に学んだ交渉術(1163年頃~1190年頃)
義時の父時政は伊豆の在庁官人でした。頼朝の義理の父となり、挙兵時から共にいた支援者として有名ですね。彼の記事も書いていますので、詳しくはそちらをご覧ください。
時政は在庁官人としても、3年間の大番役(京都の警備役で、自費で任務)としても、その交渉術と、面倒見の良さで人脈を築いた人でした。北条の領地の財力はそれだけゆとりがあり、時政は使いどころを熟知していたのです。
時政は頼朝と娘政子の婚姻を認め、挙兵に際しても全面的に頼朝を支援しました。京の動静にも詳しく、平氏打倒の気運がくることに賭けたのでしょう。
義時が、歴史の表舞台に登場するのは、16歳のころ。ちょうど1180年の頼朝挙兵の折り、頼朝の命で父・時政と行動を共にします。頼朝らは「山木館襲撃」に成功、三浦氏と合流できず「石橋山の戦い」に敗北。安房(千葉県南部)に逃げ、上総広常・千葉常胤を味方に再起。軍を進めながら、武蔵(関東地方)の武士らとも合流、鎌倉に入ります。
北条時政・義時は頼朝の命で甲斐の武田氏の説得に向かい、交渉を成功させています。この時、時政41歳、義時16歳。父の手腕を間近に見たことでしょう。
時政・義時親子はそのまま、甲斐の軍勢と富士川の戦いに赴き、勝利しています。
ただ、父・時政は頼朝に完全に服従していた訳ではないようです。作戦に意見したり、頼朝の浮気の騒動には郎党を連れ鎌倉を出るなど、異を唱えることもありました。一御家人としてではなく、頼朝の義父として、北条の総領として(その立場は頼朝の義父だから実現したのですが)接していたのでしょう。
頼朝の方でも、時政を完全に信頼していたわけではないようで、京都守護以外では、重要なポストを与えませんでした。頼朝は時政の交渉に長けた特性が、そのまま策謀にも活かされることを警戒していたのかもしれません。
そして実際時政は、頼朝の死後暗躍します。記録によると北条氏による他御家人の統制、族滅事件は北条時政の策謀によるものがほとんどです。
北条家の躍進という意味で時政と義時の利害が一致している間は、義時にとって、父の策謀の手腕を学ぶ良い機会ともなったでしょう。
頼朝への忠義(1180年頃~1199年頃)
頼朝が存命のころに話を戻します。
頼朝と一定の距離のあった父時政に対し、義時は、頼朝に全面的に服従し、誠心誠意付き従ったようです。
1181年頃、鎌倉に伊豆武士団が着々と屋敷を建てた時、頼朝の大蔵御所から離れた名越に居を構えた父時政に対し、義時は御所に近い小町に居を構えています。
亀の前事件(頼朝の愛人に政子が怒り、家屋を攻撃した事件)の際、時政が頼朝の対応に怒って鎌倉を離れても義時は残り、頼朝に忠義を褒められています。
1181年4月、頼朝が身辺警護のため、主だった御家人のうち若者11人を指名したときも、義時は選ばれています。
1183年~85年、源平合戦では、西国遠征に従軍、多くの東国武士たちと苦難を共にしました。
「江間は家ノ子の専一」と頼朝に信頼されたのも頷けます。(義時は御家人の一番、の意)
頼朝から学んだ政治手腕(1200年頃~1224年頃)
1205年父に代わって政所別当に、1213年和田義盛に代わって侍所別当となった義時。(この頃から執権という認識ができるようです)義時の政治は頼朝が行ったものを引き継いでいます。
三代将軍実朝は温和で、義時を叔父として遇し、将軍と執権との間も上手くいったようです。
義時の政治の基調は東国武士政権の安定強化。多くの苦難を共にして、御家人たちからの支持も得ていました。
頼朝との違いは、義時は京都への妥協に乏しかった、という点のようです。より、東国の自主性を望んだのでしょう。
策士としての一面
義時が交渉や政治を学び、西国遠征に従軍、多くの東国武士たちと苦難を共にしたことは、後の執権政治の基盤を築きました。また、若いころから父とは別の立場や意見、行動を示したことで御家人たちから支持されたようです。
さて、義時の暗躍が始まります。
1199年の頼朝の死後、北条の力の強化を図る父の動きには概ね同調。いくつかの族滅事件、将軍の交代が起こります。1205年「牧の方事件」で父が暴走を始めたと判断すると、制圧。親族であっても、冷静でドライな対応をみせます。その後も義時による族滅事件、そして将軍暗殺事件へと続きます。
大きなトピックを、挙げてみましょう。
頼家の失脚と死(1203年~1204年)
頼朝には忠実に仕え、その政治を受け継いだ義時。しかし、二代将軍となった頼家に対してはその失脚や殺害に加担したのではないかと思わせる資料や史実が存在します。
頼家は1199年頼朝の後を継ぎ、1203年、失脚。1204年、伊豆国修禅寺で死去しています。
頼家の死は「愚管抄」「増鏡」によると義時の手勢による暗殺です。これは、他の宿老たちも半ば公認で行われた行為でした。
なぜ、頼家が退けられたのか。家という単位で考えると、分かり安くなります。
頼家は政子の子でありながら、頼朝の裁断によって比企氏に強く結びついて、比企氏のもとで育てられました。頼朝の乳母の比企の尼の家系ですね。しかし、北条氏にとってはこれは面白くありません。北条氏が頼朝の後見として、強い影響力を持てたのは政子が頼朝の妻になり時政が義父となったから。
頼家が比企氏の妻を得たことで、北条氏の権勢は比企氏に奪われる恐れが強まりました。
頼家はまた、北条氏を始めとする東国武士の勢力図を読めず、父頼朝ほどのカリスマ性や統率力もなく、引きずりおろされたのです。
もちろん北条氏の側から書かれた歴史書「吾妻鏡」では義時が頼家の失脚や死に直接関わったとはしていません。時政の独断かのように記しています。しかし、他の書物にあるように頼家に関しては、義時もその失脚に一役買ったと考えられます。
北条氏は頼家が死ぬ前に、三代将軍実朝の就任を朝廷に認めさせるなど、準備も万端でした。
さて、義時が次に陥れたのは、策謀の師匠でもある父・時政でした。
父、時政を失脚させる(1205年)
義時は1205年「牧の方事件」で父が暴走を始めたと判断すると、制圧しました。親族であっても、冷静でドライな対応をみせます。ここには、政子との協調関係があったことも、面白い点です。
詳しくは時政の記事に書いていますので、ここでは省きます。
もう一つ、「和田合戦」などは義時の策士ぶりがよく顕れている事件の一つです。
和田合戦(1213年)
父・時政の失脚後1213年に起こった和田合戦。義時はこの時もきちんと北条氏の利益を拡大。まるで図ったようです。
和田義盛は頼朝の挙兵当時から従った腹心。初代侍所別当。源平合戦、奥州合戦で武功があります。鎌倉殿の13人の宿老の一人。
この戦で義時が得た成果は以下の通りです。
和田義盛の職だった侍所別当に、義時が就任。→幕府の三官位のうち、政所・侍所を義時が合わせもつ。
これは、北条氏としての族滅事件の数々に連なる、御家人の統制、北条家の強化の戦いであった可能性が高そうです。
義時もまた、父時政に劣らず策士であったのでしょう。
虎視眈々と勢力を溜める手腕は、見事です。
実朝暗殺、黒幕説(1219年)
三代将軍実朝のときはどうでしょう。
実朝は朝廷よりの将軍とはいえ、穏やかで、義時ともうまくいっています。頼朝の子である実朝に将軍の座にいてもらうことで、御家人たちの納得も得られていました。
実朝がいるなら、と後鳥羽上皇は将軍後継の皇子の下向にも同意していました。このタイミングで義時が実朝を排除する必要はありません。そして頼家のときとは打って変わって、将軍の後継選びは難航しています。
この、実朝暗殺については、やはり、頼家の子、公暁によるものだったのではないでしょうか。
いかに策士とはいえ、また二代将軍頼家の失脚、暗殺に関係していたとしても、実朝暗殺が義時による陰謀であったとするのは、乱暴なようです。
陰謀説、違う解釈をしてみた記事は→北条義時・三浦義村、盟友二人の活躍と暗躍
天皇家の敵となっても、離れなかった御家人
承久の乱(1221年)
1221年の承久の乱は、政権を朝廷に取り戻したい後鳥羽上皇が、北条義時を朝敵として院宣を出したことで勃発しました。頼朝の直系が将軍であった時には押し進めなかった計画ですが、鎌倉幕府の実権が北条氏となったことで、朝廷は動き出しました。武家政権を倒し、再び朝廷の復権を図ったのです。
朝敵となることの危険性は非常に高いものでした。天皇家に対する畏怖の念、朝廷をトップにしたヒエラルキーの指向はとても強かったのです。
しかし、御家人たちは義時から離れず、総勢19万騎が京へ出撃する積極策に参加しました。(数は諸説あり)
義時の行ってきた政策・施策が彼らの安全や利益を守っていたことが、功を奏したのです。
そして、何よりうまかったのが、「尼将軍」政子に御家人への説得を任せたことでした。
あの有名な大演説です。頼朝以来、関東の武士に与えられた土地や、安全。朝廷による労役を縮めたこと。それを思い出すよう、政子は訴えました。その恩に報いるよう、御家人たちを鼓舞したのです。さらに、天皇や上皇は、近臣に欺かれている、その欺いた者を討伐するのだと、政子は続けました。直接、天皇家を批判しないことで、御家人たちが戦いやすい、大義名分を与えたのです。
実際、労役は縮まり、武士の地位も、その長が従二位、征夷大将軍となり鎌倉幕府という権力を築くほどに上がりました。頼朝や北条義時が、武士団の意見をまとめ上げ、東国を運営してきたことは、御家人のほとんどが、認めていたのでしょう。
そして、自分が演説するのではなく、頼朝の後家、「尼将軍」政子のカリスマ性に賭けた、義時。
果たして、その効果は抜群でした。
幕府の積極的な進軍を想定していなかった朝廷。慌てて途中で迎撃に出ますが随所で撃破されます。幕府軍は、上皇が倒幕を令してから一か月後には、京都になだれ込みました。大勝利を果たしたのです。
乱の後、後鳥羽上皇は隠岐島へ配流。六波羅探題が朝廷の監視をするようになり、荘園の支配権も朝廷から幕府へと移ります。
この承久の乱の結果、朝廷と幕府の力関係は逆転したのです。
義時の最期 ずっと味方だった政子
後妻、伊賀の方に毒殺された?(1224年)
義時は1224年、62歳で亡くなりました。どうやら、これが、後妻伊賀の方の毒殺だったのではないかと、示唆されている書物があります。
藤原定家の「明月記」です。義時と伊賀の方の娘が嫁した一条実雅。その弟が承久の乱の戦後処理で捕らえられたとき、義時が妻に与えられた薬で死んだと、言及しています。
伊賀の方は実家の兄弟、伊賀光宗・朝行・光重らと図り、自身と義時の子、政村を執権に、さらに娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとしていたようです。
義時の嫡男、泰時は伊賀氏の陰謀を察知しており、北条家督と執権を継ぐことをためらったようです。この時も政子が動きました。
伊賀氏の側につくかと思われた三浦義村と、小山朝政、結城朝光など宿老を泰時館に呼び集め、その眼前に幼い四代目将軍頼経を抱いて現れると、泰時を執権と認めることを誓わせたのです。
これで、事態はは決着。伊賀氏は失脚し、泰時は執権に就くことになりました。
政子にとっては、共に闘った弟、義時。その後継問題までを、政子は見届けることになったのです。
義時と政子の目指した、東国の地位向上、東国武士政権の安定強化。二人は大きな志を共有して、最後まで戦い抜きました。
いかがでしたでしょうか。義時は本当に多面性をもった人物です。彼が目指したのは東国武士政権の安定強化。目的のためには手段を選びませんでした。政子との協調関係が常にあったことも、面白い点です。彼は政子の政治能力・意見をかなり、信用していたようです。また鎌倉の象徴「尼将軍」としての政子の価値を熟知していた、ということでもあるでしょう。調べるほどに面白さが増し、長い記事となってしまいました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献 「鎌倉北条氏河氏の興亡」奥富敬之著 吉川弘文館
耳で聞く、読書はいかが?
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