西郷隆盛は、皆さま、歴史の授業でおなじみですね。
彼は江戸時代の終わりから、明治時代にかけて、日本の歴史を大きく決定付けた武人であり、政治家です。教育者でもありました。彼の出身は薩摩藩。生まれたのは1827年。
写真は上野の西郷隆盛像。
彼のゆかりの地は日本全国に多数ありますが、ここ京都の清水寺の塔頭、「成就院」もその一つです。
西郷と月照
京都、清水寺の塔頭に「成就院」があります。清水寺の北のほうに、「千体石仏群」というお地蔵さまが並んでいます。そのすぐ奥に建っているのが「成就院」。西郷隆盛が、住職であった月照と親交を深めたお寺です。
そのころの成就院は公家、近衛家の祈願寺となっていたことから、近衛忠煕と親しくしていたようです。当時近衛家は薩摩藩と縁を深めていたこともあり、月照は両者の間を行き来していました。
そこで出会ったのが、西郷吉之助、後の西郷隆盛です。彼らと親交を深めるうち、月照も次第に尊王攘夷思想に傾いてゆきます。
安政5年、西郷を見出した主君、島津斉彬が亡くなった際、悲嘆にくれた吉之助(西郷)が斉彬の後を追って殉死しようとしました。このとき、月照は必至の説得の末、思いとどまらせたとのこと。
尊王攘夷派への弾圧と西郷入水
その年の夏、井伊直弼による「安政の大獄」が始まります。近衛忠煕も謹慎を命じられました。月照にも類が及ぶと考え、吉之助(西郷)は月照を連れ、薩摩へ逃れようとします。しかし、斉彬の死で弱体化した薩摩藩は、月照を追放しようとします。
『〈日向送り〉と言いながら、実際は日向に送るのではなく、日向国との国境で謀殺することを意味していることを、吉之助は承知していました。主君を失ったばかりか、今度は盟友である月照を、手にかけなければならない。哀しみ嘆く吉之助は、月照と一緒に死ぬことを決意し、月照にそう伝えます。勘のいい月照のことですから〈日向送り〉の意味するところに気付いており、とうに覚悟も決めていたので吉之助との心中を承諾しました。』
「せつない京都」幻冬舎新書 柏井壽著より
二人は入水、介抱されますが、吉之助(西郷)だけが助かります。月照46歳、西郷は31歳でした。
『死を覚悟していた月照は辞世の句を詠んでいました。
大君の ためにはなにか おしからむ 薩摩の瀬戸に身は沈むとも
これに対して、吉之助もこんな歌を詠んでいます。
ふたつなき 道にこの身を 捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて』
この入水事件の後、西郷は島津久光に呼び戻されるまで奄美大島に潜伏したそうです。
このあとの、西郷の活躍は目覚ましいものでした。日本という国の行く末を作ろうとした、信念の人西郷隆盛は、その後薩長同盟を結び倒幕を達成し、明治政府の中枢で、廃藩置県などの政策を実行します。
現在の日本は彼なくしてはありえませんでした。あのような押し出しの強い風貌で、断固とした政治を断行しながら、柔軟に状況を見極め他者の意見を入れることもできる、そんな人であったようです。
そんな西郷がともに死のうとまで考えた月照という人物。西郷の月照への愛情はいったいどのようなものだったのでしょう。
『 相約して淵に投ず後先なし
豈図らんや波上再生の縁
頭を回らせば十有余念の夢
空しきのく幽明を隔てて墓前に哭す 』
成就院の正門は、今は清水寺の北総門になっています。そしてその門前には、西郷が月照の十七回忌に詠んだと言われる漢詩が刻まれています。
成就院 「月の庭」で有名
その月照が住職であった「成就院」。ぜひ訪れてみてください。このお寺は、「月の庭」で有名です。
『庭園の面積は1500平方メートルで、さほど広くないが、湯屋谷庭境の生垣を特に低くして、北正面の高台寺山を大きく借景し、更に山中に一基の石灯籠を立てて巧みに遠近法を活用して庭と周囲の山景とを一つに結びつけ、庭に無限の広大さを感じさせている。(略)また東面の音羽山腹には四角形や円形に刈り込んだ樹木が幾重にもかさなり、自然に山の大樹に融合していく。初夏はサツキ、夏は碧緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季それぞれに風情が深い。』
『東山手の持仏堂は東福門院の寄進で、当院本尊十一面千手観音・不動明王はじめ幕末、国事に活躍した当院第24世月照・25世信海兄弟上人ほか歴代住職を祀っている。』
「成就院」リーフレットより
こじんまりした持仏堂は月の庭の右端に見えます。写真はご法度のようですので、じっくりご自身の目でこの景色を焼き付けてくださいね。
ホームページにきれいな光景の写真がありますので、リンクを貼っておきます。毎年、春・秋に公開されます。2020年この秋は11月30日まで、公開されています。
時間
午前9時~午後4時
午後6時~午後8時30分
特に夜、月とともに眺めたいですね。西郷隆盛と月照も眺めたかもしれない、景色です。
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