【鎌倉殿の13人】なぜ稀代の嫌われ者に?!【梶原景時】

梶原景時 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

梶原景時 (1140年?~1200年)

頼朝に信頼された武士。鎌倉殿の13人の一人。

稀代の、”嫌われ者”梶原景時。大河「鎌倉殿の13人」では中村獅童さんが演じます。『義経記』などの書物によると、源義経を陥れた人物とされ、数々の演目で”悪役”として描かれ、演じられました。梶原景時とは、どのような人物だったのでしょう。

 

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基本情報

源義経畠山重忠などに対する”梶原景時の讒言”で有名です。(讒言とは、他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。)弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され、時期は不明ですが侍所所司(次官)に任じられました。
梶原氏は大庭氏(石橋山の合戦で頼朝に敵対した大庭景親の一族)とは同族。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人でしたが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っています。
どのタイミングで頼朝に従うことになったのかは、書物によって違います。『愚管抄』では1180年の挙兵当初から。『吾妻鏡』では、石橋山の合戦で敗れ、山中に逃れた頼朝を、敵の大庭方だった梶原景時が助けたとされます。この場合、翌1181年1月に頼朝の家人となっています。
1183年12月 上総広常を頼朝の命により殺害
1184年、景時父子は源義仲との「宇治川の戦い」に参陣。頼朝に詳細な報告をし、信頼されます。
同年2月7日の「一ノ谷の戦い」では最初は梶原景時源義経の侍大将、土肥実平源範頼の侍大将になっていましたが、各々気が合わず所属を交替しています。範頼の大手軍に属した景時、景季、景高父子は大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをしました。
2月18日、景時土肥実平とともに播磨・備前・美作・備中・備後5か国の守護に任じられます。
8月、範頼に従って西国の占領にあたっていました。
1185年2月「屋島の戦い」に際して軍議で義経と対立。(逆櫓論争)源氏方としては勝利。
3月「壇ノ浦の戦い」に際しても、軍議で義経と対立。源氏方としては勝利。
1192年、景時は和田義盛に代わって侍所別当に就任
1199年、源頼朝死後、梶原景時は御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされました。(梶原景時の変)頼朝死後に続く幕府内部における権力闘争の最初の事件です。
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歴史書、物語によって捻じ曲がる、人物像

この、梶原景時、複数の歴史書・軍記物に記されますが、「吾妻鏡」「義経記」などでは高圧的で、味方の武将を見張り頼朝に告げ口をする、内部スパイのように描かれます。なぜ、梶原景時が”嫌われ者”として描かれたのでしょう。

景時自身の役職と頼朝からの信任

梶原景時は鎌倉幕府侍所所司として(別当になるのは1192年)御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取り締まりにあたる目付役でした。鎌倉殿専制政治をとる頼朝にとっては重要な役割を担った忠臣である一方、御家人たちからは恨みを買いやすい立場の人物でした。

人をよく観察し、冷静にその行動や言動を分析する。それは謀反や反乱を事前に抑えるには必須のスキルです。特に、頼朝の周りは常にそれが起こる可能性がありました。
独立した武士たちを”対平氏”という旗でまとめ上げた武士団と文官たちの鎌倉。思惑の違いや内部闘争の火種は常にあったのです。

そうなると、頼朝一人の目では足りません。しっかりと周囲を観察・把握・分析できる人材として、梶原景時は抜擢され、頼朝の期待に応えたのでしょう。

そして、その実力は確かであっても、ときに、間違った疑いをかけられる者もあり、ちょっとした言い間違いを許されない空気にもなるでしょう。必然的に、梶原景時は怖れられつつ、敬遠される、という立場にいたと考えられます。

様々な書物に描かれた人物像

この時代を記録した代表的な書物で、梶原景時の人物像を読み取ってみましょう。

『吾妻鏡』

『吾妻鏡』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年から1266年までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。

『吾妻鏡』では、梶原景時の死に際する文章で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。

これは歴史の勝者、北条氏が編纂した歴史書。北条氏にとって政敵であった梶原景時がよく書かれなかったのは自然なことでしょう。最終的に梶原一族は北条時政によって滅んでいますので、その正当性を北条氏はことさら、強調して書き残そうとしたのです。

しかし、屋島、壇ノ浦の戦いの後の”讒言”については『吾妻鏡』でさえ、梶原景時にフォローをいれています。

『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」(大意)と述べており(略)この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。(ウィキペディアより)

『平家物語』

日本の鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いた。作者は不明。

「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」の下りなどに、梶原景時と源義経の確執が生まれる描写がみられます。

『平家物語』によれば、義経の軍に属した景時は兵船に逆櫓をつけて進退を自由にすることを提案。義経はそんなものをつければ兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対。景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と言い放ち義経と対立した。いわゆる、逆櫓論争である。2月、義経は暴風の中をわずか5艘150騎で出港して電撃的に屋島を落として、景時の本隊140余艘が到着したときには平氏は逃げてしまっていた。景時は「六日の菖蒲」と嘲笑された(屋島の戦い)。

ちなみに、「六日の菖蒲」とは5月5日の節句に間に合わなかった菖蒲の花のこと。遅すぎる、とバカにしたということですね。また、「壇ノ浦の戦い」に際しては

『平家物語』によれば、軍議で景時は先陣を希望したところ、義経はこれを退けて自らが先陣に立つと言う。心外に思った景時は「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と愚弄し、義経の郎党と景時父子が斬りあう寸前になった。合戦は源氏の勝利に終わり、平氏は滅亡した。

現代のわれわれが読むと、梶原景時の発言は間違っていないように思えますよね。

引き方を知らない船を、海戦は初めての義経が率いるなど、大ばくちだったでしょう。また、大将が先陣を務めるのも、危険すぎる手段です。どちらも、少しでも目算が外れれば損害が甚大な大敗につながったはずです。梶原景時はリスク管理を訴えた、といえるのです。
結果的に、義経軍が勝利し、梶原景時が笑いものになったというのが事実であったなら、景時の憤懣やるかたない思いも想像できます。また、ことの次第を頼朝に進言するのは、組織管理の観点からも妥当ではないでしょうか。

『平家物語』における梶原景時の表現は、さほど批判的ではありません。武功を急ぐ、戦の天才義経に振り回され、苦悩する様子は、その後の義経への頼朝や梶原景時の対応の伏線として描かれています。

『玉葉』

『玉葉』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。

頼朝を征夷大将軍に押し上げるなど、宮廷で力をもった、九条兼実。頼朝にとっても、対朝廷の太いパイプ役でした。
この『玉葉』による「梶原景時の弾劾状」に至る経緯は『吾妻鏡』とは違います。

頼朝亡き後起こった「梶原景時の変」。「吾妻鏡」では、この梶原景時は追い落とされるときも、内部スパイのような動きを、周りが嫌ったかのように書いています。

しかし、『玉葉』によると景時追放の原因とされたのは、将軍・頼家にその弟・実朝を将軍に担ごうとする陰謀があることを報告したことでした。実際、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となっています。

こうなると、景時が行ったのは”讒言”ではありませんね。忠義な告発です。しかし、頼家はこの告発をきちんと処理できなかったようです。

「玉葉」を書いた九条兼実から見れば、梶原景時は、将軍に正しい情報と忠告をもたらす忠臣だったのです。

『愚管抄』

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の1220年頃成立

『愚管抄』では梶原景時は「鎌倉ノ本体ノ武士(鎌倉殿頼朝の第一の家来の意味)」と評価されています。

利害によって変わる人物像

上記の四作の書物に於いて、景時に批判的な表現があるのが「吾妻鏡」でした。北条氏による編纂の「吾妻鏡」は、正に歴史の勝者によって書かれた書物です。北条氏によって陥れられた梶原景時が”悪役”として描かれたのは、当然のイメージ戦略だったのです。
より客観性の強い二作「玉葉」「愚管抄」では、梶原景時についての表記は少ないですが、彼はむしろ頼朝頼家に忠実な人物として、描かれているのです。この二作は、ほぼ歴史をリアルタイムで記録しています。頼朝と利害が一致していた九条兼実梶原景時との間に利害関係が薄かった、慈円の筆は、事実に近い表記をしているかもしれません。中立的な表現の「平家物語」などでも梶原景時は”嫌われ者”ではありません。

 

ではなぜ、景時は”嫌われ者”のイメージばかりが定着してしまったのでしょう。それは次に挙げる「義経記」とそれを題材にした”歌舞伎の人気”によるところが大きいようです。

「義経記」と江戸時代の歌舞伎

この鎌倉幕府創始の物語の中でも、特に江戸時代の民衆に受けたのが「義経記」でした。

『義経記』(ぎけいき)は、源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語。全8巻。南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。

この「義経記」は、「平家物語」を元に、義経をヒーローとして編まれた書物です。成立年も時代が下っており、史実というより伝承を情感豊かに描いたもの。平家物語を下地としている、室町時代の創作とみるのが正しいようです。分かりやすく勧善懲悪の世界観で描かれた物語です。

この物語では、もちろん梶原景時は”悪役”。景時はヒーロー義経を悪意をもって陥れ、義経は理由なく兄、頼朝に追われることとなるのです。”愛される義経”と”嫌われる景時”が創られてしまったのですね。

この『義経記』における”梶原景時の讒言”とは

『平家を討取つては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし、地に二人の王なしといへども、此後は二人の将軍やあらんずらん』と仰せ候ひしぞかし。

『(義経が)頼朝に並んで将軍となろうとしている発言があった』という意味のことや

野心を挟みたる人にておはすれば、人毎に情を懸け、侍までも目を懸けられし間、侍共『あはれ侍の主かな。此殿に命を奉らん事は、塵よりも惜しからじ』と申して、心を懸け奉りて候。

『(義経は)野心のため、侍たちに必要以上の情をかけ慕われている』という意味のことを頼朝に訴え、鎌倉へ義経を入れないよう進言した、と記されています。「平家物語」の表現よりふわっとした、具体性に欠ける讒言になっています。あたかも、景時が義経の発言をでっち上げているかのようですよね。

この「義経記」を元に歌舞伎の演目がいくつも生み出され、大人気となったようです。悲劇のヒーロー義経と元悪僧・弁慶の主従関係、静御前との別れなど魅力的な題材、戦の臨場感や人物の生き生きした描写で皆の心をおおいに打ち、捕らえて離さなかったのでしょう。
『義経記』を元に能や歌舞伎、人形浄瑠璃など、後世の多くの演目が創られ、文学作品も書かれます。勧善懲悪の分かりやすい物語として、浸透していったのですね。

こうなってくると、梶原景時のイメージは”悪役”として、固定化、広まっていきます。史実の人物より、分かりやすくデフォルメされた人物像が信じられてしまったのでしょう。

 

いかがでしたでしょうか。一人の人物が、書物によってさまざまに解釈、脚色されている、ということがお分かりいただけるかと思います。三谷幸喜さんは、どの様な梶原景時を演出するのか、とても楽しみですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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