こちらは、後白河法皇の記事に関連する資料です。源頼朝にとって、朝廷とは後白河法皇とその周辺貴族。頼朝は”大天狗”と後白河法皇を評しました。何度も院政停止に追い込まれ、しかし返り咲く、朝廷の主として、長く存在しました。そんな”大天狗”後白河法皇を主軸にした年表です。
こちらの記事は主に京都方の年表です、鎌倉の動静は以下のページをご覧ください。
1160年~1199年の鎌倉方の年表→鎌倉方の動静の年表1
1199年~1221年の鎌倉方の年表→鎌倉方の動静の年表2
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日本最大級!オーディオブックなら - audiobook.jp後白河法皇と平氏・源氏の年表
保元の乱・平治の乱
1156年 鳥羽法皇が崩御。天皇家兄弟間派閥争いである「保元の乱」起こる
後白河天皇は藤原信西(しんぜい)に擁され、平清盛、源義朝(頼朝の父)が味方となり勝利。敗北した兄の崇徳上皇は、讃岐国へ配流される。
天皇位は、美福門院と信西の思惑通り子の二条天皇に譲り、後白河院となる。
1159年 天皇家親子間派閥争いである「平治の乱」起こる
二条天皇即位により起こった、後白河院派と二条親政派の対立を背景に、藤原信頼・源義朝(頼朝の父)の軍勢がクーデターを起こす。
信西は殺され、後白河院は幽閉されるも、自力で脱出避難していた。二条親政派と手を結んだ平清盛により、藤原信頼・源義朝は破られた。これにより、頼朝は伊豆へ流されることとなる。
後白河院派、二条親政派共に、有力な近臣が殺されたり、処分されたことで対立は小康状態になり、二頭政治となる。
1160年 後白河院、法住寺殿造営。日吉社・熊野社、勧請。以降熱心に熊野詣(熊野三山への参拝)を行う。最初の熊野詣では清盛も同行。熊野詣では34回ともいわれる。
美福門院死去。美福門院は二条親政派の後ろ盾だった。
後白河院派の陰謀露見、清盛は二条派支持。後白河院は院政を停止される。千手観音信仰にのめりこむ。
1164年 後白河院、蓮華王院(三十三間堂)造営。清盛が造営を行った。
蓮華王院・新日吉社・新熊野社には荘園が寄進され、後白河院の経済基盤が強化された。
1165年 二条天皇崩御。皇位は79代六条天皇となる。後白河院、院政再開
平氏と親密な時期
摂関家・平氏が後白河院派に鞍替えする。
10月、寵愛していた平滋子の子、憲仁親王(後の高倉天皇)、立太子。清盛の協力で。
11月、後白河院、清盛を内大臣とする。人事の刷新。
1167年 法住寺殿、建て替え。
平重盛(清盛長男)、山賊・海賊追討宣下により、国家的軍事・警察権を委任。清盛、家督を重盛に譲る。
1168年、清盛病に倒れる。後白河院見舞いに駆け付ける。情勢不安の気運の中、高倉天皇への譲位が行われる。
清盛、病が癒え、福原(神戸)で隠遁する。
1169年6月、法住寺殿において出家、法皇になる。
平氏と反目しつつも、平家全盛となる時期
1169年 比叡山延暦寺の強訴に対し、延暦寺に友好的な平氏と政治路線の違いが浮き彫りとなる。
分裂の危機は至る所にあり、安定を図ろうと、高倉天皇へ清盛の娘徳子(建礼門院徳子)の入内が決まる。
1171年、12月徳子入内。
清盛の進める日宋貿易には理解を示し、貴族の反対を抑えて、その拡大に取り組んだ。
1173年、後白河法皇、「南都北嶺」と称された興福寺と比叡山の紛争に介入。東大寺・興福寺以下南都15大寺の荘園の没官。この時は平氏も同調。
1174年、滋子を伴って、安芸国厳島神社参詣。清盛も同行。
1176年3月、50歳を迎え、賀宴行われる。
摂津国有馬温泉に行幸。
4月、比叡山に登り、天台座主・明雲に天台の戒を受け、関係修復を図る。
7月、滋子、死去。
1177年、平重盛・宗盛(清盛の子)が左大将・右大将となる。
1177年3月、比叡山延暦寺とのトラブル
末社を焼いてしまった者の親が、後白河院の近臣であった。後白河法皇は平重盛に防御を命じるが、重盛の軍兵が神輿に矢を射てしまい、不利な幕引きとなった。
4月、安元の大火 後白河法皇は天台座主・明雲を捉え座主の地位から解任。所領を没収。
5月、明雲配流。比叡山の大衆が明雲の身柄を奪還。平重盛・宗盛に命じ、武力攻撃。
6月、鹿ケ谷の陰謀 平氏打倒の陰謀が露見した、として後白河法皇の近臣が処分される。(この頃は、「政務を執ろうとする高倉天皇と平氏」vs「高倉天皇と平氏を邪魔に思い始めた後白河法皇」という構図であり、陰謀が清盛のでっち上げという説もある。)
後白河法皇、政治力低下。17歳の高倉天皇は政治的自立。
1178年、徳子懐妊。後の安徳天皇出産。
平氏との不和・決別の時期
1179年 摂関家の遺産トラブルで清盛と対立。11月14日、清盛はクーデターを起こす。高倉天皇の宣命によって行われたため、後白河法皇は太刀打ちできず。
後白河法皇、院政停止される。福原で幽閉される。
1180年2月 高倉天皇譲位。高倉院政へ。
1180年5月、以仁王の挙兵。鎮圧はされたが、平家をよく思わない勢力は多い。
1180年6月、清盛は福原へ遷都を画策。
1180年8月、頼朝が挙兵。
1180年10月、富士川の戦い、平氏大敗。
1180年11月、情勢不利な中、福原遷都はうまくゆかず、高倉院の体調不良もあり、後白河法皇に再び院政を打診。しかし、清盛は園城寺(以仁王に協力、決起した)・興福寺を焼き払う等条件とし、後白河法皇の基盤減少を図る。12月、南都焼き討ち。
1181年1月、高倉院崩御。後白河法皇、院政再開。
2月、清盛死去。「今様乱舞の声」が法皇の居所から聞こえた。『玉葉』「うれしや水、なるは滝の水」と舞い踊り、どっと笑う声がした『平家物語』と記され、喜ぶ後白河法皇の様子がうかがえる。
軍事に関しては、宗盛ら平氏の意見が通り、法皇の意向はまだ通らなかった。
頼朝からの和平の打診は、宗盛が拒否。法皇は、安徳天皇と母后(建礼門院徳子)を平氏から切り離そうと動く。
1183年5月倶利伽羅峠の戦い、平氏敗北。
この頃、木曽義仲軍はすでに近江に至っていた。
7月、後白河法皇、平氏の都落ちの意図を察知、比叡山に脱出。
後白河院の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院・近衛基通・平氏一族を引き連れて京を出た。木曽義仲入京。
後白河法皇と公卿は天皇・神器の回復の目処も立たないことから、平氏追討宣旨を下す
頼朝と遠隔でやり取りする時期
新天皇擁立に木曽義仲が口出しする。
頼朝の申状届き、10月9日、後白河院は頼朝を本位に復して赦免、14日には宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。
木曽義仲の扱いをめぐっては、頼朝と後白河法皇に意見が合わず。頼朝は、完全に義仲を見限る。
1183年10月 法住寺合戦
帰京した義仲に対し後白河法皇は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」と挑発。
法住寺殿は木曾義仲軍の襲撃を受ける。後白河法皇捕らえられ義仲の恫喝により、頼朝追討の院庁下文を発給する。
1184年 正月20日、源範頼・義経軍の攻撃で木曾義仲は敗死。後白河法皇解放される
26日に平宗盛追討の宣旨、29日に義仲残党追捕の宣旨が下される
1184年2月7日、源範頼・義経軍は一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅させる。
平氏追討は一時中断となり、遠征軍の大半は鎌倉に帰還する。義経は頼朝の代官として京都に残る。
1184年3月27日、後白河法皇は頼朝を従五位下から一挙に正四位下に叙し、6月5日には親鎌倉派の平頼盛を権大納言に還任させ、平氏の知行国だった三河・駿河・武蔵を頼朝の知行国(関東御分国)とした『吾妻鏡』
後白河法皇と頼朝は平氏追討という点では一致していたが、個々の人事になると双方の思惑に差があった。
頼朝は、九条兼実を摂政にするよう働きかけていたが、後白河法皇は拒む。
さらに義経に対しては、治安を回復させた功績により検非違使のまま五位に叙し、厚遇を示した『吾妻鏡』
西国に下向した源範頼軍だったが、兵粮の欠乏・水軍力の不足・平氏軍の抵抗により追討は長期化の様相を呈した。
年が明けた1185年正月8日、危機感を抱いた義経は後白河院に四国に出撃することを奏上する。当初、後白河院は京都の警備が手薄になることを危惧して義経の出京に反対する。
その後許可、しかし、邪魔をする。義経、振り切って、出兵。
1185年3月24日 壇ノ浦の戦いで平氏滅びる
1185年3月27日、後白河院は頼朝を正四位下から従二位に叙す
追討の指揮官である義経にも地位を与える
1185年5月7日、平宗盛・清宗が鎌倉に送られた
1185年5月23日、宗盛父子の首は検非違使庁に渡されて梟首され、後白河院は三条東洞院で宗盛父子の首を見物している
1185年 東大寺大仏開眼供養
頼朝、義経不和の時期
1185年10月、源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する。
後白河院は義経を制止しようとするが、義経は頼朝追討宣旨の発給を迫り、やむを得ず頼朝追討の宣旨を下した。
しかし宣旨は下されたものの兵は思うように集まらず、11月3日、義経は京都を退去した。
院周辺は頼朝の報復に怯えて戦々恐々となった。後白河院は頼朝に「行家義経の謀叛は天魔の所為」と弁明したが、頼朝は「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」と厳しく糾弾する。『吾妻鏡』
1185年11月24日、北条時政が千騎の兵を率いて入京する。頼朝側の要求が突きつけられる。
守護・地頭認めさせられる。
朝幕関係改善
皇居である閑院内裏は1185年の大地震で破損し、大江広元が上洛して幕府の全面的支援により修理作業が行われた
検非違使庁の機能低下もあり、頼朝は、ただちに千葉常胤・下河辺行平を上洛させて、群盗鎮圧の任務に当たらせている
奥州合戦
1188年 頼朝の申請を受けて、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨が下されている『吾妻鏡』
1188年7月19日、頼朝は宣旨によらず自ら軍を率いて奥州に発向し、9月には奥州藤原氏を滅ぼした
これは朝廷の命によらない私戦だったが、後白河は7月19日付けの泰衡追討宣旨を下して頼朝の軍事行動を追認した『吾妻鏡』
頼朝と親密になる時期
1190年11月7日、頼朝上洛
『愚管抄』によると、頼朝が後白河院に「君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思候(法皇の事を自分の身に代えても大切に思っています)」と表明し、その証拠として朝廷を軽んじる発言をした功臣・上総広常を粛清したことを語ったという。
13日、頼朝は後白河院に砂金800両・鷲羽2櫃・御馬100疋を進上、19日と23日には「御対面数刻に及ぶ」「終日御前に候ぜしめたまふ」と長時間の会談があった『吾妻鏡』。
権大納言・右大将両官の官位を与える。頼朝は大納言・右大将両官を辞任するが、権威誇示に利用。
頼朝の在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数える。
1191年、17ヶ条の新制、頼朝の諸国守護権が公式に認められた。
1191年、幕府の支援により戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿の再建工事
造営を担当した中原親能・大江広元に剣を下賜、丹後局・吉田経房は頼朝に「法住寺殿の修理美を尽さるる事」を感謝する書状を送った。
後白河法皇の最期
後白河法皇、体調不良。
1192年2月18日、雨の降る中を後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する。後白河法皇は大いに喜んで、後鳥羽天皇の笛に合わせて今様を歌っている。後鳥羽天皇が還御すると、後白河院は丹後局を使者として遺詔を伝えた。
その内容は、法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿など主要な部分を天皇領に、他の院領は皇女の亮子・式子・好子・覲子にそれぞれ分与するというもので、後白河院に批判的な九条兼実も「御処分の体、誠に穏便なり」としている。
3月13日午前4時頃、六条殿において66歳で崩御した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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