これまで、院およびその近臣と平家、寺院勢力と貴族の対立・抗争など、京都を中心とした描写が続いた「平家物語」。しかし、以仁王挙兵の辺りから、軍記もの、といわれるにふさわしく、広い範囲での合戦の描写が多くなります。
以仁王の挙兵以降、京都周辺から、東国へと、物語の視点も一挙に拡大されます。平治の乱以降、中央政界では活躍できずにいた源氏が、地方で新しい勢力として表舞台に登場し始めるのです。
アニメ「平家物語」第五話後半。ここで登場した、キーパーソン、源頼政と、以仁王について触れていきます。
橋合戦の描写、びわが吟じたシーンは、次の記事に紹介しています。
以仁王挙兵 財源と兵の数は十分、しかし
頼政はこの頃76歳。打倒平氏の行動を決意した動機として、『平家物語』は「競」の章で私的な怨恨を挙げています。アニメでも馬をめぐる、頼政の嫡男・仲綱と宗盛との確執が描かれていました。
しかし動機は私怨だけでもないでしょう。頼政は、1179年11月の院近臣の追放や、法皇の幽閉以来高まる反平家の気運に乗じ、源氏の再興を図ろうとしていたと推測できます。頼政は、財源を期待でき、かつ、平家の影響で皇位につけなかった以仁王を旗印とする計画を練り、地方に散っている源氏の動静も把握していました。
以仁王
以仁王は、後白河法皇の第二皇子です。しかし、後白河法皇の寵妃、平家出身の建春門院(茂子)の「御そねみ」を受けて、皇位への望みは断たれ、元服さえも「忍びつつ」行われるような不遇の人として登場します。この時すでに、30歳でした。
しかし、多くの荘園を持つ、八条院の猶子でもあり、経済的な後ろ盾はありました。この、八条院の荘園は、全国200か所におよび、以仁王は、経済的には平家に対抗できるはずでした。
源頼政
源頼政は、摂津源氏。平治の乱では、最初は源義朝(頼朝の父)とともに行動していましたが、六波羅に脱出した二条天皇に従い清盛につきました。
この裏切りは、頼政がもともと、鳥羽天皇と、妃・美福門院の皇女、八上院が支援する六条天皇(二条天皇の皇子)に仕えていたためだと思われます。
頼政は、1172年以降、伊豆の知行国主でもありました。摂津源氏と河内源氏(清和源氏。義朝・頼朝・木曽義仲ら)とは200年近く前に血脈が枝分かれしています。しかし頼政は、義朝を裏切った負い目もあってか、清和源氏一門の武士を、支援していました。
こうしてみますと、以仁王と頼政の挙兵は、財力・兵力ともに、準備さえしっかりできていれば、勝ち目のある企てだったと考えられます。
巻第四、「源氏揃」より
画像はクリックで拡大できます。
訳文
「君は天照大神四十八世の御子孫で、神武天皇より七十八代にあたっておられます。皇太子におたちになり、皇位にもおつきになるべきでありますのに、三十歳になられるまで宮でおられることを、情けないこととお思いになりませんか。いまの世の有様をみますと、おもてむきには従っているようですが、内々は平家を憎まない者がありましょうか。ご謀反をお起こしになって、平家を滅ぼし、法皇がいつまでとなく鳥羽殿におしこめられておられる御心を安らかにし奉り、君も皇位におつきなさるべきです。これがこのうえもない御孝行でありましょう。もし御決意なされて、令旨をお下しくださるならば、喜んで馳せ参じてくる源氏は数多くおります」
と申して、さらに語りつづけた。
頼政は続けて、日本各地、摂津、河内、大和、近江、美濃、尾張、甲斐、信濃、伊豆、常陸、陸奥にいる源氏一門の名を連ね、以仁王に挙兵を促しました。
以仁王は、思案の後、人相を見てもらい、挙兵を決断します。熊野の十郎義盛(このとき行家と改名)を召して、蔵人とし、令旨を伝達する御使いとしました。
女装束で逃げる、以仁王
しかし、情報が洩れるのが、早すぎました。
まだ、平家打倒の具体的な方針や企てが定まっていない状態で、ばれてしまったのです。
どのようにして洩れたのか、それは書物によって様々に表現されますが、何しろ、日本国中に散らばった源氏に伝え歩いたのですから、洩れる機会は多かったかもしれません。京都や畿内の源氏に伝える段階で、すでに洩れたのでは、と思える早さでした。
『平家物語』では、熊野別当湛増が、謀反を知らせたとしています。
巻第四、「信連」より
訳文
「これは、どうしたらよかろう」
と驚き、あわてられると、宮の侍に長兵衛尉信連という者があって、
「ほかに方法はないでしょう、女房装束でおいでなさいませ」
と申したので、それがよかろうと、御髪をとき乱し、御衣を重ね着して、市女笠をお召しになった。(略)
さしたる考えもなく、挙兵する決断をしてしまった、以仁王。しかし、この条に続いて、残って戦った信連や、頼政の嫡男・仲綱の因縁の馬を取り返して駆け付けた競(きおう)という人物の描写が鮮やかに描かれます。
三井寺、興福寺、反平氏として戦う
以仁王を匿うこととなった三井寺(園城寺)は、反平家の大寺院での協力をするべく、延暦寺・興福寺に呼びかけの書状を送ります。
しかし、延暦寺は、園城寺と同列に表現されて気に食わないとし、返書を出しませんでした。さらに清盛が座主を通して鎮まるよう要請。米や絹を送りました。こうして延暦寺は、三井寺の味方とはならなかったのです。
興福寺はどうでしょう。
こちらは、平家、特に清盛に対し、激しい敵愾心を抱いていたこともあり、すぐに、三井寺に応じたようです。しかし、興福寺は奈良ですので、軍勢はすぐには合流できません。
さらに、三井寺では内部の意見もばらつき、フットワークの悪さが描かれます。老僧たちの会議の長さから夜討ちは失敗。怒った若い僧に追われた老僧が、六波羅へ参った、などと記されています。
25日、以仁王は、これでは頼りないと、奈良、興福寺へ向かおうとします。
源頼政の一族、三井寺の若い衆徒を連れ、再び移動の途についたのです。
今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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