【平家物語】遷都とモノノ怪騒動【アニメ6話】

平維盛 平家物語

アニメ「平家物語」第六話、清盛は福原(現・神戸)への遷都を決行しました。日宋貿易を推し進めた清盛らしい、中国風の調度で整えられた清盛の居室の様子が、描かれていましたね。さて、しかしこの新しい都では、恐ろしいモノノ怪たちが跋扈したようです。

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「平家の悪行においては悉くきはまりぬ」

この、1180年6月の福原への遷都は、「玉葉」が詳細に記し、「明月記」にも記載されました。厄災の一つとして「方丈記」にも書かれています。

「玉葉」では遷都の理由についても推測しています。清盛は、寺社に囲まれた京都ではなく、新たな地を求め、寺社勢力からの分離を急いだのだと、考えられます。
以仁王の乱で、三井寺、興福寺は、反平家となりました。比叡山は、以仁王の乱では加担していませんが、いつ、反平家となるかも分かりません。すでに、折々の強訴には悩まされてもいました。

しかし、民衆にとっては慌ただしい遷都は受け入れ難かったはずです。新しい都の建築資材は、今までの京都の屋敷・家屋を壊して持っていく、という形で確保されました。大貴族や摂関家の人々も内心は平家に反感を強めつつ、まだその権勢を恐れ、ついて行かざるをえません。

巻第五、「都遷」より

巻第五 都遷

画像はクリックで拡大できます。

訳文

旧都は、まことにすばらしい都であった。仏はその威光を和らげて王宮を守護する鎮守の神々として現れなさり、霊験あらたかな寺々は、南北に甍を並べて建てられ、百姓万民は生活に何の煩いもなく、五畿七道へ交通の便もよい。
しかし、今は街の辻々をみな掘りおこして、通路遮断し、車などの容易に行き交うこともできない。まれに通る人も、小車に乗って、回り道をして行くのであった。軒をつらねていた人々の住居も、日を経るにしたがって荒れていった。家々はとり壊して賀茂川・桂川に運び入れ、筏に組んで流し、資財・雑具の類は、舟に積んで、福原へと運び下した。
花の都も、ただただ田舎のようにさびれはててゆくのは悲しむべきことであった。何者のしわざであったか、旧都の内裏の柱に、二首の歌が書かれた。
ももとせを四かへりまでに過ぎきにし愛宕のさとのあれやはてなん
(百年を四たびくりかえすまで都として続いてきた、この愛宕の里、京都も、今や荒れはててしまうことであろう)
咲きいづる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき
(咲きそめる花のような美しい都をふりすてて、風ばかり吹く福原へ遷る、その行く末はどうなることか、危ういことだ)
「平家物語」では、遷都について「平家の悪行においては悉くきはまりぬ」と記し、資盛がきっかけとなった、基房への報復事件を「平家悪行のはじめなれ」としたことに、対応させました。
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物怪之沙汰

移ったはずの福原で、モノノ怪に悩まされる、平家の人々。これは、彼ら自身の不安の投影でもあったでしょう。

巻第五、「物怪之沙汰」より

巻第五 物怪之沙汰 1

 

巻第五 物怪之沙汰 2

訳文

福原へ都を遷された後は、平家の人々は不吉な悪い夢をみることが多く、いつも胸騒ぎばかりし、怪異のものがしばしば出現した。ある夜、入道が寝ておられるところに、一間にはいれないほどの大きな顔が現れて覗いた。入道相国は少しも驚かず、はったとにらみつけておられると、たちまちに消え失せてしまった。
岡の御所という所は、新しく造成された場所なので、これというほどの大木もなかったのに、ある夜、大木の倒れる音がして、人ならば二、三十人ほどの声で、どっと笑うことがあった。これはまさしく天狗のしわざだ、ということで、ひきめの当番と称して、夜百人、昼五十人の番人を揃えて、ひきめを射させられたが、天狗のいる方角に射たときには、何の音もせず、いない方へ向って射たと思われるときには、どっと笑いなどした。
また、ある朝、入道相国が帳台から出て、妻戸を押し開き、中庭を御覧になると、死人のされこうべが数限りなく庭に満ちあふれて、上になり下になり、転がりあい転がり出し、端にあったものは中へ転げこみ、中のものは端に転がり落ち、からからとおびただしく音をたてているので、入道相国は、
「だれかいるか、だれかいるか」
と呼ばれたが、折悪しく参上する者がなかった。こうするうちに、多くの髑髏どもは一つに固まり合い、庭の内にはいりきれないほどになって、その高さは十四、五丈もあろうかと思われる、山のようなものになった。その一つの大頭に、生きている人の眼のような、大きな眼が千万の数ほども現れて入道相国をじっとにらみつけ、まばたきもしない。入道はすこしもあわてず、はったとにらんで、しばらく立っておられた。その大頭は、あまりに強くにらまれて、霜や露などが日にあたって消えるように、あとかたもなくなくなってしまった。
アニメでは、牛の頭の巨大な面が描かれていました。これは、『往生要集』にも書かれた、地獄の獄卒でしょう。当時、地獄という概念が『往生要集』によって広まっていました。
巨大なしゃれこうべは、有名な歌川国芳『相馬の古内裏』をイメージすると合致しそうです。もちろん、こちら「平家物語」の方が先に編まれていますが。
権勢を振りかざし、天皇を中心とした秩序、寺社が口を出す政治、それらを覆そうとした清盛。
やろうとしていた事は、現代の我々からみれば、それなりに理解できることでした。遷都による政教分離は、桓武天皇もかつてやろうとしたことです。しかし、長く続いた天皇家の朝廷から実権を奪取することは、まだ、時代の価値観が許しませんでした。さらに民衆にとっても、朝廷による支配と平氏による支配は、さほど変わりなく、動乱はただ生活を脅かすだけだったでしょう。
平家の人々も、清盛の行き過ぎた行為を、恐れるようになっていたのでしょう。しかし、彼を諫め、留める力を持つ者は、重盛の死後、いなくなってしまっていたのです。
今回はここまで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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