【平家物語】奈良炎上 くらさはくらし【アニメ7話】

びわ 平家物語

 

さて、積み上がっていく、清盛の悪行。天皇を頂点としたヒエラルキーを意に介さない行動や、驕り高ぶる振る舞い、それらを並べて叙述してきた『平家物語』。そして、当時の価値観が、もっとも忌諱したのは、神仏への冒瀆でした。

以仁王の乱の時、以仁王を匿った三井寺を、焼いてしまった平家。以仁王に味方しようとしたのは、奈良の興福寺も同じでした。

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都帰

1180年6月、福原への遷都を画策した清盛。しかし、諸事うまくはいかず、寺社の反発も増大。11月には、京への、都帰りが行われました。

『玉葉』では6月の遷都以来のことを、禍といて論じています。『玉葉』を書いた九条兼実は摂関家(藤原氏)の人。清盛が寺社や、摂関家、公家を煩わしく思い、独断で遷都を強行したことに、強い反感をもっていたのでしょう。天皇以外の施政者による遷都は、当時はまだ行われたことはなく、貴族たちの間でも清盛への反発が強まる結果となりました。

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奈良炎上

1180年5月の、以仁王の挙兵のとき、三井寺と同心し、以仁王を助けようとした、南都興福寺。南都は、以仁王の挙兵以前にも、清盛の施政に対し蜂起するなど、平家にとっては油断ならない勢力でした。都を福原に移そうとしたのも、こうした寺社と物理的に距離をおく意味合いが強かったのです。しかし、都を京にもどさなけらばならなくなり、平家は興福寺へも、なんらかの方針を示さねばならない局面にきていました。

毬打(ぎっちょう)

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巻第五、「奈良炎上」より

巻第五 南都炎上 1

訳文
また一方、都では、
「高倉宮(以仁王)が園城寺(三井寺)に入られたとき、奈良、興福寺の大衆はこれに同調し、そのうえ御迎えに参ろうとまでしたことは、まさに朝敵としての行動である。それ故、興福寺も三井寺も攻められるべきである」
という方針がたてられるやいなや、たちまちそれが奈良に伝わって、興福寺の大衆は大挙して起ちあがった。
摂政殿から、
「考えるところがあれば、何度でも奏上しよう」
と申し入れられたけれども、まったく聞き入れようともしない。 (略)
 また、興福寺では、大きな毬打(ぎっちょう)の玉をつくって、これを平相国の頭と名づけ、
「打て」
「踏め」
などと申した。「外に漏れやすい詞は災いを招くもとであり、行いをつつしまないことは、敗北をうける原因である」といわれている。この入道相国と申す方は、申すもおそれ多い当代天皇の外祖父であられる。それをこのように申す奈良の大衆の行動は、おおかた天魔のなすわざであると思われた。

略した原文の部分では、朝廷から二度ほど、使者を派遣したにも関わらず、大衆により愚弄され帰ってきたことが語られています。

玉を清盛の頭と見立て、打て、踏めと遊ぶのもかなり挑発的です。もともと、清盛や平家の治世には不満をためていたのでしょうが、武士の家相手に、よくやるなあと、あきれてしまいますね。やはり当時の寺は強気です。

これらを耳にした、清盛。何もしないわけがありません。

ついに兵を

巻第五、「奈良炎上」より

巻第五 南都炎上 3

巻第五 南都炎上 4

訳文

 入道相国はこのようなことなどを伝え聞かれて、どうしてよいと思われることがあろう。ともかくも奈良の暴虐を鎮めようと、備中国の住人瀬尾太郎兼康を、大和国の検非違使に任ぜられた。兼康は五百余騎の軍勢を率いて、奈良へ出発した。
「衆徒が乱暴することがあっても、おまえたちはけっしてしてはならない。鎧・甲などを身につけるな。弓矢を持ってはならぬ」
と命じてさし遣わされたが、大衆はこのような内情を知らず、兼康の軍勢のうち六十余人をとらえて、一人一人首を斬り、猿沢の池のほとりにかけならべた。
入道相国は激しく怒って、
「それでは、奈良を攻めよ」
といって、大将軍には頭中将重衡、副将軍には中宮亮通盛、合せて4万余騎の軍勢を率いて、奈良に向って出発した。大衆も、老若を問わず、七千余人が兜の緒をしめ、奈良坂と般若寺の二ヵ所の道を彫り切って、堀をつくり、掻楯を立て、逆茂木をめぐらして待ちかまえた。
平家は4万余騎を二手にわけて、奈良坂・般若寺二ヵ所の城郭に押し寄せ、どっと鬨の声をあげた。大衆はみな徒歩で、刀を武器としているのに対し、官軍は馬で駆け回り駆け回り、あそこここに追いかけ、矢をつがえては放しつがえては放し、さんざんに射たので、防ぎ戦う大衆は、つぎつぎと討たれていった。午前六時ごろ矢合せをして、一日じゅう戦いつづけ、夜にはいって奈良坂・般若寺二ヶ所の城郭はともに打ち破られてしまった。
(略)

初めに丸腰の使者を送っていたという記録は、他の書物にみえず『平家物語』の創作かもしれません。どちらにしても、争いはもう、避けられない状況であったのでしょう。

くらさはくらし

戦いは夜にもつれこみます。

巻第五、「奈良炎上」より

巻第五 南都炎上 4

巻第五 南都炎上 6

訳文

 戦いは夜にはいり、あたりはすっかり暗くなったので、大将軍頭中将重衡は、般若寺の門前に立って、
「火をつけよ」
と命じられると、ただちに平家の軍勢のなかの播磨国の住人、福井庄の下司、二郎大夫友方という者が、楯を割ってたい松にし、あたりの民家に火をかけた。十二月二十八日の夜であったので、風は激しく、火元は一ケ所であったが、吹きまくる風にあおられて、寺の建物の多くに焔をふきかけていった。
恥をわきまえ、名誉を重んじるほどの者は、奈良坂で討死し、般若寺で討たれてしまった。歩ける者は、吉野、十津川の方へ落ちのびていった。歩くこともできない老僧や、仏道ひとすじの修行僧、稚児たちや女、子供は、大仏殿の二階の上や、山階寺〈やましなでら〉の内へわれさきにと逃げこんだ。
大仏殿の二階の上には千余人がのぼり、敵がつづいて来るのをのぼらせまいと、階段をとりはずしてしまった。そこへ猛火がまっこうから押しかけてきたのである。わめき叫ぶ声は、焦熱、大焦熱、無間阿鼻の地獄の、炎の底で責め苦をうける罪人もこれ以上ではあるまいと思われた。
二十九日、頭中将重衡は、南都を滅ぼして京都へ帰還された。入道相国ひとりは鬱憤がはれて喜ばれたが、中宮・後白河法皇・高倉上皇・摂政殿下以下の人々は、
「たとえ悪僧を滅ぼすにしても、寺院を破滅することがあろうか」
と、お嘆きになった。

アニメでは、燃え上がる堂宇を外から眺める描写でしたが、『平家物語』のこの原文では、逃げ遅れた、修行僧、老僧、女・子どもまでもが焼け死んだ描写をしています。

総大将となった平重衡が、京へ戻っても、とても笛を吹く気になれなかった、というアニメの表現もありました。このようなすさまじい焼き討ちをしてしまった、という彼の自責の念を、表していたのでしょう。重衡は清盛の五男。重衡にとっては、後に一ノ谷で囚われたはてに、南都の大衆らによって斬られ、その首を般若寺大鳥居の前に釘づけにされるという最期(巻第十一重衡被斬)の、要因となってしまう、宿命的な出陣となったのです。

三井寺に続き、南都興福寺、東大寺をも焼いてしまった平家。

この、寺を焼くという行為が、後の清盛の死にぎわの姿、その苦しみが熱によるもの、行くべき地獄が焦熱地獄、無間地獄であることにつながってゆくのです。次回、書いていきます。

今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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