【鎌倉殿の13人】頼朝のライバル 、でも交渉はからっきし!?【木曽義仲】

木曽義仲 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

木曽義仲 (1154年~1184年)

木曽義仲(源義仲)は、後白河院の皇子・以仁王(もちひとおう)の子を擁し、頼朝とは別の思惑で平氏に反旗を翻した武士です。

頼朝が挙兵した1180年以降、大きな勢力としては、平家が京都を中心とした近畿近国、源頼朝が東海地方、木曽義仲が東山地方(山梨・長野・岐阜)を拠点にして三者がにらみ合っている状態となっていました。

頼朝と義仲は従兄弟。しかし父親たちは対立、義朝(頼朝の父)の長男によって、義賢(義仲の父)は討たれています。頼朝とは同族でありながら、別の勢力としてとらえるべき人物なのです。

源平合戦のこう着状態のなかでは、義仲が頼朝の叔父ら(頼朝からの待遇に不満をもっていた)を匿ったことで、頼朝と一触即発の事態となりました。このとき嫡男木曽義高を、人質として鎌倉へ送ることで、難を逃れています。

さて、松尾芭蕉や芥川龍之介が惚れ込んだという武将、木曽義仲とはどんな人物だったのでしょう。

 

 

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頼朝より早かった入京、しかし交渉で頼朝に出し抜かれる

1180年9月、以仁王の令旨を受け、以仁王の子を擁し、木曽谷で挙兵した義仲。1181年6月、信濃に進攻してきた平家方の城氏に勝利。1183年4月、越前で火打城の戦いで敗れるも、平氏軍に1183年5月、平家の軍を迎え撃った「倶利伽羅峠の戦い」で勝利し、頼朝より早く1183年7月、京へ入ります。平氏は戦わず京都を離れました。

木曽義仲の進軍

 

しかし、義仲は自軍の兵の京での狼藉を統制できず、京の治安維持は悪化。さらに皇位継承に口出しし、後白河法皇に疎まれました。10月には、後白河法皇に責められ、挽回のため平氏討伐へ向かいます。

そのすきに、頼朝は後白河法皇に交渉をします。東海・東山道占拠の解除、返還を材料に平家打倒の一の手柄は自分にあると、朝廷・後白河法皇に認めさせたのです。

後白河法皇も義仲ではなく、頼朝に乗り換えました。頼朝は、政治や交渉で、木曽義仲を抑え込んだのです。

院は義仲を、平家攻撃のため西国・水島へ向かわせたすきに、この政略を断行する。もちろん義仲は激怒、京都へ馳せかえるが時遅し、間もなく頼朝の使者(義経)が上洛するから仲良くせよとの院の仰せだ。院と頼朝の政略に翻弄され、腹にすえかねた義仲は京都で挙兵、武力で院を幽閉し、元摂政藤原基房を中核とする政権を打ち立てようとした。『歴史人 JUL.2021 No.127』より

この後白河法皇に戦いを仕掛けることになった、1183年11月の「法住寺合戦」によって、頼朝は義仲を朝敵として攻撃する口実を得ました。

義仲は、福原から上洛をうかがう平氏と、上洛の口実を得た頼朝の襲撃とにさらされることになります。義仲が北陸に逃れる手を模索する中、1184年1月、義経率いる軍勢が宇治から突入し、後白河法皇を確保。北陸へ逃れようとした義仲は近江粟津で討たれました。

 

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京都に嫌われた義仲

義仲を語るいくつかの、エピソードを紹介します。

義仲が京になだれ込む直前の延暦寺との交渉では、「平氏に味方するのか、源氏に味方するのか、もし悪徒平氏に助力するのであれば我々は大衆(僧兵)と合戦する事になる。もし合戦になれば延暦寺は瞬く間に滅亡するだろう」という些か恫喝めいた方法を取った。
北陸宮(以仁王の子)を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に申し立てた。
九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」と言うように、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快であった。
『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直るさまが描かれる。

この他にも、『平家物語』には、木曽義仲の京でのたくさんの田舎者エピソードが語られました。猫間殿を、猫殿、とからかう。大もりの椀を振舞い、かきこんで食べるよううながす。牛車の乗り降りの流儀を知らない、教わっても直さない。鼓判官を、鼓にかけ嘲笑する、などなど。武将らしい、単刀直入で飾り気のない人柄、と評することもできるかもしれません。

が、交渉の基本はまず相手と信頼関係を築くこと。つまり嫌われないことです。京方の風習を毛嫌いしていては、政治を動かせません。政権を動かせるような位置にきたからには、これでは通らないでしょう。

特にいけなかったのは、京での掠奪行為でしょう。この頃は、”養和の飢饉”という1181年からの大飢饉の影響で、まだまだ民衆が苦しんでいました。京都の人々も例外ではありません。そこへ、義仲の大所帯の軍隊が留まるのですから、食糧難はひどくなったことでしょう。
そんな状況で、もし上記のような「青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。」といった発言があったとするなら、疎まれるだけでは済みませんよね。

『平家物語』の原文で紹介→【平家物語】義仲の京での振る舞い【第九話】【京にとっては略奪者】

現実に、後白河法皇と頼朝によって追い詰められた義仲は、1183年11月自爆的な「法住寺合戦」を決行、2か月後、1184年正月には京を追われて敗死しました。このときの「宇治川の戦い」には、義経・範頼軍に協力した京都方の人間がいたとしても、不思議はありません。

交渉技術以前の、配慮のない発言・行動をしたのであれば、腹いせに「田舎者」として数々のエピソードを語られても、仕方がなかったでしょう。武力を持たない京の民衆の、意趣返しが義仲への”あざけり”となって、語られたのでしょう。

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家人を思い遣り、忠義を尽くされた義仲

義仲は鎌倉、京都からみると、ひどい評価をされますが、今井四郎兼平ら木曽四天王といわれる忠臣や、巴御前と呼ばれる女武者との美しい主従のエピソードももっています。『平家物語』の「木曾最期」の段はぜひ原文も読んでみてください。

中でも、巴御前と義仲のエピソードは興味深いです。巴御前は軍を動かし、義仲と共に戦った女武者。

巴御前

巴は『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として描かれています。

中にも巴はいろ白く髪ながく、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もッては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵者なり。究竟のあら馬乗り、悪所おとし、いくさといへば、札よき鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名肩をならぶる者なし。

義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとします。巴は何度も言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い、大力と評判の敵将・御田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首をねじ切ります。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消すのです。

平家物語より後に書かれた『平家物語』の異本の一つ、『源平盛衰記』ではさらに脚色がされたようです。

『源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも七騎を討ち取って高名を上げたとされている。

宇治川の戦いでは頼朝の忠臣、畠山重忠と巴御前の戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は

「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」

と答えている。

『平家物語』には、上記の巴御前との別れの他、家人、今井四郎兼平との語らい等、巴や兼平の義仲へのお互いの苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれています。

巴を逃がそうと、言葉を尽くす義仲に、最後まで忠誠を尽くそうと全力で戦う巴御前。伝説的な人物が実在したという証明はありません。しかし、魅力的なエピソードですよね。

京を蹂躙したのも義仲、このような美しい主従のいたわりを見せたのも義仲。国を治める技量はなくとも、郷里や仲間、家人への想いはことさら深かったのかもしれません。

自分の周囲を思い遣れた、その視点を、京都の人々、さらに日本全体の民衆に広げて持つことができていたら。違った日本史が紡がれた可能性もあったかもしれません。

いかがでしたか?大河「鎌倉殿の13人」では、青木崇高さん木曽義仲を、その子で大姫の許嫁となった木曽義高市川染五郎さんが、巴御前秋元才加さん演じます。個人的には、男武者の首を引きちぎるとまで「平家物語」に描写された巴御前の大力や軍を任され奮闘する姿など、彼女の武将としての演出があれば嬉しいのですが。三谷幸喜さんの描く彼らを楽しみにしたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

参考文献

「日本の時代史8 京・鎌倉の王権」五味文彦著 吉川弘文館

「平家物語の女たち」細川涼一著 講談社現代新書

木曽義高と大姫の悲恋について触れた記事→【鎌倉殿の13人】将軍職を”継いだ”女性【北条政子】

木曽義仲の進軍、合戦経過図を載せた記事→【鎌倉殿の13人】睨み合う、平家・頼朝・木曽義仲【木曽義仲の進軍】

『平家物語』「木曾最期」の段、原文紹介→【鎌倉殿の13人】【平家物語・原文】義仲、討たれる【木曾最期】

 

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