【三谷幸喜 「清須会議」】本を片手に京都をめぐる⑨

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豊国神社 豊臣秀吉像 本を片手に京都をめぐる

「清須会議」

幻冬舎文庫 三谷幸喜

織田信長が本能寺の変にあう時点から始まるこのお話。信長亡き後の跡目争い「清須会議」を描き、登場人物の等身大の語りで物語が進む、臨場感あふれる小説です。
まるで、舞台の台本のような構成なのは、舞台・ドラマ・映画を手掛ける脚本家、三谷幸喜が、一番得意とする書き方だからかもしれません。
実際、この「清須会議」は、原作・脚本・監督を三谷幸喜、主演は大泉洋で映画化されました。

清須会議 三谷幸喜

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主人公、羽柴秀吉

戦国時代で誰もが知るエピソードであろう、本能寺の変。もう少しで天下を統一できる、という時に明智光秀の謀反にあい、命を落とした信長。
羽柴秀吉はその知らせをいち早く受け、自身が戦の真っ最中であった毛利氏にその事実が知れる前に講和。備中高松城からたったの10日間で京都の山城山崎までとって返します。(中国大返し、備中高松は岡山県岡山市、山城山崎は京都府長岡京市。約200㎞を2万以上の兵を連れ踏破)そして、山崎の戦いで明智光秀を破ります。

信長の重臣は、光秀を除いて、柴田勝家、滝川一益、丹波長秀、羽柴秀吉。みな、遠方での戦、あるいは戦の準備中で京を離れていました。条件はそう変わらなかったようですが秀吉の動きは、抜きんでていました。

しかし、信長、信忠(信長の嫡男で織田家を継いでいた)の死後、秀吉が直接、天下を取ったわけではありません。
名目上は、織田家があと一歩で天下をとる所な訳ですから、織田家の家臣である秀吉が、いきなりしゃしゃり出ては、謀反人扱い。光秀の二の舞です。天下のお鉢は衆人を納得させて得ないとなりません。

織田家の跡目を決める会議であった「清須会議」。しかし秀吉にとっては、まったく別の戦いの場であったのです。

では、人たらしと言われた秀吉は、次にどう動くのか。それがこの小説の面白さなのです。

 

しゃべり倒す、戦国の人々

 

現代語ならきっとこんな心情

この作品では実に多くの登場人物が、自分の胸中をペラペラと話してくれます。それも、現代語で。ですが、三谷幸喜の完全なる創作かといえば、そうでもありません。
歴史上の記録のあるエピソードと、三谷幸喜が喋らせたセリフはかなり、符合しているように思います。やはり、大河ドラマを愛し、戦国時代を愛する三谷幸喜、とことん調べたうえで、書いているのでしょう。

あの人物の動きは、こういった思いからだったのか、と思わせる説得力があります。

人間の行動原理は、正義や向上心、大義名分だけではありません。愛や欲、それ以外にもありますね。恥を怖れたり、失敗を取り繕ったり、やけくそに動いたりもします。
それは戦国時代の人々にも言えること。
そして、そういう描写は三谷幸喜の十八番です。有頂天ホテルを書くのと同じようなテンションで、まさかの戦国時代を書いてしまっているのです。
天下国家を動かす歴史上の人々も生身の人間、三谷の筆がそのことを思い出させてくれるのです。

よくしゃべるのは会議に参加する、重臣たちだけではありません。秀吉の妻、寧や信長の妹、お市。武田信玄の娘で織田信忠の妻、三法師の母である松姫。
そういった女性たちも、文官であり、実務・庶務をこなす前田玄以や、秀吉の軍師、黒田官兵衛も、みなこの作品の中では、雄弁に話し出します。
なにせ、イノシシ狩りで仕留められたイノシシまでもしゃべるのです。

戦国の人々が、もし現代の口語でしゃべってくれたら、きっとこんな口調で、こんな間合いで心情を吐露するのではないでしょうか。そう思うと、彼らはずっと身近な存在のように感じられます。

天下を目指す度胸と器量

しかし、生身の人間、同じ人間とは言っても、天下国家を目指すことの壮大さには、やはり圧倒されます。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康について考えるとき畏敬の念も禁じ得ません。

今の時代でなぞらえるとしたらどんな偉業でしょう。

時代を切り開く、という意味ではビル・ゲイツや、松下幸之助といった人たちの偉業が当てはまるでしょうか。もし私が手腕を勉強したとしても、実際にやってみることは不可能です。
多くの人はそう、考えると思うのです。

しかし、秀吉はとことんまで、上を目指しました。草履持ちからの天下取り。
上を目指し、突き進む彼の心を、内側から覗くことが出来てしまうのも、この作品のすごさです。
別の資料によると秀吉の身長は140㎝、右手が悪かったといわれ、容姿もどうやら恵まれてはいませんでした。それを、覆す、知恵と行動力、そして度胸。

むしろ、マイナスの要素が彼を突き動かす原動力だったのでしょうか。口語のセリフで等身大に描かれた秀吉ですが、なおのことその生きざまの凄味が増します。

 

作中、秀吉は、寧以外では初めて、「天下を自分が治める」と前田利家(家族ぐるみの付き合いで盟友)に明言するくだりがあります。
身の程をわきまえろと、怒る利家に対して、三谷は秀吉に、こう、言わせています。

「斬りたければ斬るがいい。しかし、もしオレを斬れば、戦国の世はあと百年続くぞ。考えてみよ。信雄も信孝も天下を治める器ではない。親父殿に至っては戦場でしか活躍できない男だ。親父殿には可哀想だが、ああいった連中の時代はもう終わったのだ。これから新しい時代が始まるのだ。新しい世の中をオレが作るのだ。」

秀吉にとっては、会議とは、会場に入るまでの準備のこと。さらに、衆人の心を掴むこと。それには演技も演出も重要です。そして最も重要なのは、会議の目的を何に定めるのか、という点です。そこが、彼が余人とは違うところでした。
織田家を継ぐのは、次男信雄か、三男信孝か。どちらが付けば、誰が得をするのか。そして、秀吉がみる、その先は。

京都で秀吉縁の場所と言えば

いかがでしたでしょうか。

この「清須会議」の後、秀吉は大阪城を築き、関白・太政大臣に就任、天下統一を果たします。太閤検地や刀狩で国内の統合も進めました。これらの政策によって、兵農分離が進み、江戸時代に続く身分社会の基礎がつくられました。

縦横無尽に活躍した秀吉縁の地は、西日本に多数あります。大阪、そして京都でも民衆に愛された秀吉。京都で、秀吉縁の地と言えば以下が代表的です。

聚楽第

今は、跡地として残るのみですが、1587年、自身の京都での邸宅、また迎賓館のような役割の「聚楽第」が建てられました。わずか8年で取り壊されています。

幻の城、京都新城

なんと現在の京都御所の敷地内、御所の南東部分、仙洞御所で、豊臣の幻の城「京都新城」跡とみられる石垣や堀、金箔瓦が2020年5月発掘されたのだそう。
公邸だった聚楽第を取り壊した後の1597年、東に1㎞余り離れた場所に築城。秀頼が訪れたほか、秀吉の死後は正室の高台院(寧)の屋敷となったそうです。
こちらの城も1600年の関ヶ原の戦いの前に壊されています。

豊国神社

現存する場所では、豊国神社や北野天満宮が有名です。豊国神社は、秀吉を祀り、宝物殿には、縁の品々が収められています。
徳川によって別の寺へ移されたものも多いようですが、その後、旧家から寄進された本人や息子秀頼縁のものが豊国神社、宝物館に展示されています。

この記事の、トップ画面の写真は、この豊国神社で撮影しました。

北野天満宮

北野天満宮は1587年、「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」が開かれた場所。「茶会は10日間行い、茶の湯を嗜む者は、道具さえ持参すれば、身分を問わず参加でき、
秀吉自ら茶を立てる」とふれられた大規模な茶会。結果としては1日だけ、開催されたようです。その1日で1000人もの人々が訪れたのだそう。

高台院

秀吉の正室寧が、秀吉の冥福を祈るために建立。寧々が晩年を過ごした地でもあります。河原町から歩ける場所にあり、賑わいます。

 

 

 

 

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