こちらは、「平治の乱」後から、頼朝の死の頃までの、源頼朝と北条家を中心とした年表です。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半の頃に対応する部分です。参考にしてみてください。
耳で聞く、読書はいかが?
日本最大級!オーディオブックなら - audiobook.jp年表 頼朝と北条家
年 | 月 | 源頼朝 | 北条時政・義時・政子 | |||||
1160年 | 2月~3月 | 頼朝の父・義朝「平治の乱」で敗れ、頼朝は伊豆へ流される(14歳)
比企尼の援助 |
頼朝の乳母・比企の尼の娘婿、安達盛長・川越重頼・伊東祐清や、佐々木定綱ら4兄弟が従者として仕えた | |||||
1171年 | 12月 | 京都・朝廷で清盛の娘・徳子(建礼門院)高倉天皇に入内 | ||||||
1175年 | 頼朝、伊東祐親の娘・八重と恋仲に(29歳)千鶴丸生まれる。→祐親怒り、頼朝は北条時政館へ逃れる | 『曽我物語』によると千鶴丸は祐親の命により殺される | ||||||
1177年 | 京都で、平重盛・宗盛(清盛の子)が左大将・右大将となる。 | |||||||
1178年頃 | 政子と婚姻。大姫生まれる | 北条時政、義父となる | ||||||
1179年 | 11月 | 京都で清盛、クーデター。後白河法皇、福原で幽閉される | ||||||
1180年 | 5月 | 以仁王・源頼政挙兵・敗亡 | ||||||
8月 | 頼朝挙兵。三浦一族と合流できず、「石橋山の戦い」敗れ、房総へ逃れる。
後に、三浦氏合流。 上総広常・千葉常胤が加勢。 |
「石橋山の戦い」では時政・義時も参戦、房総に逃れた。 | 梶原景時大庭景親の一族だが、頼朝につく。
安達盛長、関東武士を糾合。千葉氏説得。 |
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10月 | 武蔵国へ。足立遠元・葛西清重・畠山重忠・川越重頼・江戸重長ら従える。 | 時政・義時、甲斐武田氏と交渉、味方とする。 | ||||||
10月 | 富士川の戦い | 武田氏が中核となり、平氏に勝利 | ||||||
佐竹氏討伐へ向かう途中、義経参じる | ||||||||
金砂上の戦い | 佐竹氏に勝利
各地の豪族、平家に対し挙兵 |
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頼朝、「勲功の賞」を行う。和田義盛を侍所別当とする | ||||||||
1181年 | 平清盛、死去。頼朝、後白河法皇に和平の提案、平宗盛これを拒否。戦いはこう着状態 | |||||||
頼朝、嫡男頼家生まれる。
義時、頼朝の個人的な側近とも言える「家子」の11人に選ばれる。 |
鎌倉に、伊豆武士団の面々、館を建てる | |||||||
1182年 | 亀の前事件 | 時政の後妻・牧の方が政子に亀の前と頼朝の関係を密告。怒った政子屋敷を襲わせる |
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1183年 | 2月 | 坂東平定。「本領安堵・新恩給付」始める | 義時の阿波局との子、泰時生まれる | |||||
春 | 木曽義仲と武力衝突寸前となる。木曽義高を大姫の許嫁として人質にとる | |||||||
7月 | 木曽義仲、入京。平家一門、都を去る。
反乱軍とみなされていた、頼朝の勢力は朝廷から認められる。 |
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10月 | 京都で、法住寺合戦。法住寺殿は木曾義仲軍の襲撃を受ける。後白河法皇捕らえられ義仲の恫喝により、頼朝追討の院庁下文を発給する。 | |||||||
12月 | 上総広常殺される。 | |||||||
木曽義仲、頼朝上洛を恐れ、頼朝追討の命を望むが許されず。 | ||||||||
1184年 | 1月 | 木曽義仲、後白河法皇を拘束。義経軍、義仲を破り、義仲粟津の戦いで敗死 | ||||||
2月 | 一ノ谷の戦い(範頼・義経軍勝利)
頼朝、義経を自らの代官として京に留まらせ、畿内の武士掌握。平氏追討の書状を九州・四国へ。 |
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4月 | 頼朝、木曽義高を討つ | 政子、義高を討ったことに怒る | ||||||
8月 | 範頼を大将とし、平家追討軍、鎌倉を発つ。北条義時・足利義兼・千葉常胤・三浦義澄・結城朝光・比企能員・和田義盛・天野遠景ら。9月、西海へ。 | |||||||
10月 | 公文所(後の政所)開き、大江広元を別当にする
問注所を開き、三善康信を執事とする |
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1185年 | 1月 | 範頼から、兵糧と舟の不足、東国武士の不和を訴える書状届く
頼朝、安徳天皇や建礼門院の無事のため軍を動かさず、九州の武士から反感を得ぬよう記した書状を送る。九州の武士に向けても、書状を送る。 この状況をみて、義経は1月10日出陣 |
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屋島の戦い(平家は海上へ追いやられる) | ||||||||
3月 | 壇ノ浦の戦い(平家滅亡)安徳天皇亡くなり、三種の神器の一つも失う。平宗盛捕らえられる | |||||||
4月 | 義経の補佐をした梶原景時から義経を弾劾した書状が届く | |||||||
5月 | 義経、平宗盛父子を伴い鎌倉へ入ろうとするが、許されず。「腰越状」 | 鎌倉入りはしたが冷遇された、という説もある | ||||||
6月 | 義経、宗盛父子を斬首 | 頼朝出陣、兵は集まらず。 | ||||||
8月 | 頼朝、叔父・行家追討を義経に命じるが義経応じず。 | |||||||
10月 | 頼朝、義経邸を襲わせるも失敗。義経、後白河法皇から頼朝追討の宣旨を引き出す。 | |||||||
11月3日 | 義経、戦わず京を離れる | |||||||
頼朝、朝廷に圧をかける。大江広元の進言で「守護・地頭」をおく
北条時政を京へ送る |
北条時政、千騎を率い入京。頼朝の怒りを伝え、交渉。「守護・地頭」を認めさせ、朝廷内の改革も行う。朝廷は、重ねて、義経追捕の宣旨を出す。 | |||||||
1187年 | 義経、奥州へ逃れ藤原秀衡の庇護をうける | 奥州合戦
全国の武士が動員され、頼朝と武士たちの主従関係を強固なものとした |
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1189年 | 藤原秀衡死去。藤原泰衡、義経を殺害
7月、頼朝、泰衡討伐に出陣。 9月平泉を征服、藤原氏滅亡。 |
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1190年 | 11月 | 頼朝入京。後白河法皇と対面。
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義時、頼朝と共に上洛。 |
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1192年 | 征夷大将軍となる
実朝、生まれる |
義時、頼朝の仲介で姫の前を正室とする。(1193年朝時、1198年重時生まれる) | ||||||
1193年 | 5月 | 富士の巻狩りにおいて、12歳の頼家鹿を射止める。 | ||||||
8月 | 範頼、謀反の疑いで、伊豆へ流される | |||||||
1195年 | 2月 | 頼朝、東大寺再建供養出席のため、政子・頼家・大姫らを伴い上洛 | ||||||
1197年 | 大姫の死 | |||||||
1199年 | 1月 | 頼朝死去(53歳) | この頃、時政62歳、義時37歳、政子43歳。 |
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