【鎌倉殿の13人】屋島の戦い【”サイコパス”義経の急襲】 

屋島の戦い 経過図 「鎌倉殿の13人」登場人物を読み解く

一の谷の戦いから、一年ほど。1184年の年末。一度は鎌倉に戻っていた源範頼は、九州へ向け、進軍をしていました。京では、義経が、じりじりと戦いの時を待ち望んでいました。動きたくてたまらなかったようです。

源平合戦 経過

図はクリックで拡大できます。

今回は⑤「屋島の戦い」について、紹介します。『平家物語』においても、梶原景時とのはっきりした対立が「屋島の戦い」からみられるようになります。そして、義経の”サイコパス”的な一面も、この戦いによく顕れていると思うのです。

※ここでは、”サイコパス”を猟奇殺人者などと定義するのではなく、偏った特性として書いています。

サイコパス 一般人と比べて著しく偏った考え方や行動を取り、対人コミュニケーションに支障をきたすパーソナリティ障害の一種で、サイコパスの主な症状として、感情の一部、特に他者への愛情や思いやりが欠如していることや、自己中心的である、道徳観念・倫理観・恐怖を感じないといったことが挙げられます。

 

それでは「屋島の戦い」、詳しく見ていきましょう。

 

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優秀な組織人、範頼の進軍

1184年2月の「一ノ谷の戦い」の後、源範頼はいったん、鎌倉に戻ります。6月、源頼朝の推挙により、三河守に任じられます。8月8日、平家追討のため鎌倉を発ち、29日京で朝廷から、追討使に任じられ、9月1日から西国へ発ちました。

兵粮の不足に困難を極めた進軍でしたが、1185年初めごろ、長門国赤間関(山口県、関門海峡付近)に至ります。しかし、長門国の飢饉により、兵粮も船も得られず、進路を変え、1185年1月26日、周防国(山口県南部の辺り)へ引き返し、そこから、九州、豊後国(大分県の辺り)へ渡ります。

1185年2月1日には「芦屋浦の戦い」で、平家方の原田種直らの軍を破りました。

兵粮不足に苦しみながらも、何とか軍の統制を立て直し、九州の平家方との戦に勝利した範頼。頼朝に忠実に動く、組織人としての優秀さが分かりますね。さて、そのころ、義経はというと、いまだ、京に留められていました。

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単独で動き出した、義経

図は、屋島へ向かう義経軍の進路をあらわしたもの。クリックで拡大できます。

屋島の戦い 経過図さて、頼朝は、九州からは範頼、京からは義経の軍で平家を挟み、攻めたてようと考えたのでしょう。義経には要の京を守り、この時点では留まることを求めていました。

義経は、範頼の軍からもたらされる情報に、イライラとしたのかもしれません。じっくりと挟み撃ちなど、悠長だ、と感じていたようです。

彼は、後白河法皇に自分の出兵を認めさせます。後白河法皇でさえ、義経を止める素振りがあったのですが、彼は進軍を止めることはしませんでした。

1185年1月8日、後白河法皇に自らの出陣を申請し、頼朝の判断を仰がないまま、10日には出京。(『吉記』)このとき、頼朝の許可をまだ得ていなかったのです。頼朝は追認した形です。
2月16日、摂津国渡辺津にいた義経の元に、後白河法皇の使者が訪れ、京中警備のため戻るよう要請したようですが(『玉葉』)、義経は17日船出します。しかも、たった5艘の舟での進軍でした。

自分の軍の本体すら残して、進軍

『平家物語』では、この時、義経と梶原景時の間で、戦略の違いによる対立があった、と描写しています。巻第十一、逆櫓の段です。

義経は、17日、梶原景時の軍勢を残したまま、5艘ほどの船で、強風の中、船出したと記されています。しかも、きちんと申し合わせた訳ではなく、秘密裏であったと『平家物語』には書かれているのです。
義経は18日には四国、阿波国(徳島県の辺り)へ着きます。同日、阿波国から讃岐国(香川県の辺り)へ越えています。そして、1185年2月19日(『平家物語』『玉葉』では18日)、「屋島の戦い」が行われました。『平家物語』の通りであれば、梶原景時の軍勢はは「屋島の戦い」には、参戦できなかった、ということです。

『平家物語』巻第十一、逆櫓の段で梶原景時の発言にもあるように、義経は正に、猪武者。猪突猛進、体力の続く限り、前進してしまうのです。

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屋島の戦い、経過

1185年2月19日、讃岐国の屋島で戦いは起こりました。

屋島は現在は陸続きですが、当時は島でした。平氏は、ここに内裏をおいて、勢力の盛り返しを図っていました。

平氏は、海上からの攻撃には備えていましたが、陸路は盲点だったようです。

義経は、干潮時には騎馬で渡島が可能であること、平氏が陸地からの攻撃を予想していないことを把握します。

当日、義経は少数で渡島し、大軍に見せかけるため近辺の民家に放火したうえで内裏を急襲しました。義経方の武士が、早い段階で内裏にも火を放っています。

平氏は混乱、内裏を捨てて海上へ逃れます。鎌倉軍が少数であることに気付きますが、内裏奪還はできませんでした。

この戦いで、義経は奥州から連れていた家臣、佐藤嗣信を失います。戦上手で矢の名手、平家方の能登守教経に狙われた義経を、嗣信は庇いました。
鬼気迫る、戦いの様子は、『平家物語』巻第十一、嗣信最期の段に読み取れます。

そして、有名な那須与一のくだりも、この「屋島の戦い」での出来事です。

21日、平氏は再び上陸を試みましたが、義経に撃退されました。
22日、梶原景時が200艘ほどの船で、屋島に到着。”六日の菖蒲”、5月5日の端午の節句に間に合わなかった花のように、役に立たないと、皆が笑ったと「平家物語」に記されます。

こうして、平家は屋島を諦め、瀬戸内海を西へ向かいました。

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義経の”サイコパス”な一面

組織を無視、まるでゲリラ戦!?

少数精鋭による、急襲だった「屋島の戦い」。しかし、『平家物語』をよくよく読むと、義経が独断で突き進んだことが分かります。

まず、自分の組織のトップ、頼朝の指示を得ていません。別組織のトップ(敢えてこう表現します)、後白河法皇の許可はかろうじて得ていますが、それも強引なものだったよう。
さらに、舟について意見が合わないからと、梶原景時が率いる本隊をおいて、秘密裏に進軍をしてしまいます。

もう、組織として動く気はさらさら無かったことが分かりますよね。このときの義経の戦い方は、軍による戦術、というよりはゲリラに近いものだったことも読み取れます。

味方や自分の安全も、二の次

逆櫓論争では、船の進路を自在にする方法を提示する梶原景時。自軍の安全も視野にいれた、いわば危機管理だったはずです。これを、舟は進むのみでいいと一蹴する義経。

ついには、味方にも告げずに少人数で舟を出しました。

舟を出すに当たっても、漕ぎ手を脅し、無理やり出港。舟を出さなければ殺す、と脅された漕ぎ手も、肝をつぶしたでしょう。勝浦についてからも、ろくに人馬を休ませず進軍。少数であることを悟られないように、火付けなどをしながら、無理やり戦っているのです。付いて来られる者だけ、付いて来い、と言わんばかり。味方の武士たちや、自分自身の安全すら、眼中にないようにみえませんか?屋島の内裏にも、火を放つことを止めません。三種の神器や、安徳天皇の安全が念頭にあるようには思えない、立ち回りです。

「屋島の戦い」はこれほど、義経のワンマンな進軍だったのです。

義経、とにかく勝ちにこだわるばかりで、自分の組織の目的や、組織の中での役割、さらには味方や自分の安全さえ軽んじています。このあたりが、義経の”サイコパス”な部分だと、私には思えるのです。

いかがでしたか?今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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