この年表は、頼朝の死去した頃から、承久の乱の頃までの年表です。大河「鎌倉殿の13人」中盤に対応する頃となります。参考にご覧ください。
これ以前、頼朝が伊豆に流されてから、亡くなるまでの頃の年表は→
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年表 頼朝の死から承久の乱まで
年 | 月 | 将軍の推移・族滅事件 | 北条氏の動き | 補足情報・朝廷の動き |
1198年 | 後鳥羽上皇の院政、始まる | |||
1199年 | 1月 | 頼朝、亡くなる | ||
4月 | 頼家、第二代将軍となる | 十三人の合議制
北条時政・義時、大江広元、三善善信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政 |
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12月 | 梶原景時の変 | 御家人66人の蓮著で梶原景時、弾劾される | 『玉葉』にあるように、御家人の間に実朝擁立の陰謀があり、これを報告した梶原景時が信用されず却って追却されたか | |
1202年 | 頼家、征夷大将軍になる | |||
1203年 | 5月 | 阿野全成、誅殺される
(頼家、時政が全成を将軍に擁立しようとしていると思い込んだか) |
この頃、時政は孫・泰時を三浦義村の娘と結婚させ、子・時房を頼家のスパイとして近侍させる | |
7月 | 頼家、病に倒れる | |||
9月 | 比企能員の変 | 義時、姫の前と離別 | ||
実朝、征夷大将軍となる | ||||
11月 | 比企氏滅亡。比企氏に擁立されていた一幡(頼家の子)殺される | 義時の手勢によるものか | ||
1204年 | 義時、相模守となる | |||
7月 | 頼家、死去 | 『愚管抄』『増鏡』によれば義時の手勢による暗殺 | ||
1205年 | 6月 | 畠山重忠の乱 | 時政のでっち上げた謀反により、畠山重忠が倒されたとされる。義時がこの追討に反対した、というエピソードは、『吾妻鏡』の脚色か | |
8月 | 牧の方事件→時政出家 | 政子・義時は兵を発し三浦義村と協力し、実朝の身柄を迎えとる
平賀朝雅、殺される |
背景に、北条本家の後継者・政範の死と、娘婿・平賀朝雅を将軍に立てたい牧の方・時政vs先妻の子政子・義時という確執があった。 | |
この頃、後鳥羽上皇、朝廷の武力「西面の武士」創立(「北面の武士」も存続) | ||||
義時、継室・伊賀の方との間に政村生まれる | ||||
1205年 | 義時、父に代わり、政所別当となる | 畠山重忠・平賀朝雅の排除により、武蔵国は時房が守護・国司となる | ||
義時、大江広元・足立景盛らと連携。儀式の序列も、平賀氏(大内惟義)をしのぎ、第一位に。 | ||||
1208年 | 伊賀の方との間に、実泰生まれる | |||
1213年 | 5月 | 泉親親衡の乱→和田合戦 | 和田義盛が、謀反を起こした子と甥の赦免を請うが許されず、さらに義時の挑発を受け挙兵 | 和田義盛と同族の三浦義村は、義時に寝返る |
義時、和田義盛に変わり、侍所別当となる | 義時の子・政村、三浦義村を烏帽子親として元服 | |||
1219年 | 1月 | 鶴岡八幡宮にて、頼家の子・公暁により、実朝暗殺される | 義時、御剣役を譲っており、難を逃れたと『吾妻鏡』にある | |
朝廷寄りの実朝の死で朝廷との関係が悪くなり、天皇家からの将軍擁立が難こう、半年ほど後、九条家から三寅丸が送られてくる | ||||
三寅丸、四代目鎌倉将軍となる(九条頼経) | ||||
1221年 | 5月 | 承久の乱、起こる |
以上、簡単な年表でした。北条氏の面々や、鎌倉殿の13人に登場する人物をそれぞれ記事にもしています。そちらもご覧ください。
耳で聞く、読書はいかが?
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