北陸での敗戦は、平家を窮地に陥れました。木曽義仲に大敗したことが、負の連鎖の始まりとなったのです。図は、平家の家系図。見ながら読むと『平家物語』が分かりやすくなりますよ。クリックで拡大できます。
主上都落
北陸で大敗し、逃げ帰った平家をさらに追い込んだのは比叡山の離反でした。宗盛は都を離れる決断をします。この条では、平宗盛が都落ちを建礼門院徳子に伝える描写、そして、その夜には、後白河法皇が法住寺殿を離れたことが書かれました。後白河法皇もまた、平家を見限ったのです。
巻第七、「主上都落」より
「この世の中の有様は、それでも打開の道はないかと望みをかけておりましたが、今はこれまでと思われます。ただ都の中でどのようにもなろうと、人々は申しあわせておりますが、目の前につらいありさまをお見せするのも残念に存じますので、院も主上もお連れ申して、西国のほうへ御幸、行幸なされるようお願いしたいと決意いたしました」
と申されると、女院は、
「今はただどのようにも、あなたの計らいにまかせましょう」
と言われて、御衣の袂にあまるほどの御涙をおさえかねておられる。大臣殿も、あふれる涙に、直衣の袖をしぼるばかりにお見えになった。
「それではせめて行幸だけでもお願い申しあげよう」
と、午前六時ごろ、はやくも行幸の神輿を寄せると、主上は今年六歳、まだおさなくていられるので、なんのお考えもなくお乗りになった。御母建礼門院も同じ神輿にお乗りになる。内侍所、神璽、宝剣(三種の神器。八咫鏡やたのかがみ・八坂瓊曲玉やさかにのまがたま・天叢雲剣あめのむらくものつるぎ)をお移しする。
「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿なども持参しなさい」
と、平大納言時忠が指図されたが、あまりにあわてふためいて、とり残すものが多かった。
『玉葉』7月25日条にも、この都落ちが記されました。清盛がいた頃には、何とかつなぎとめていた比叡山に背を向けられ、さらに後白河法皇も平家の元を去りました。平清盛には、クーデターを起こされ、幽閉されていた後白河法皇。平家を良く思わなくなっていて当然です。この法皇の離反は、法皇の院宣により、平家が朝敵とされる危険を意味します。平家の者たちが、非常にあわてた様が描かれているのも、誇張ではないでしょう。朝敵となっては、破滅への道筋が浮き彫りとなります。いくら天皇を擁しているといっても、安徳天皇はこの時まだ6歳。朝廷の実権は、この時後白河法皇にあったのです。
維盛は妻子をおいて
巻第七、「一門都落」より
「どうしたか、今まで」
と言われると、三位中将は、
「幼い者たちがあまりに後を慕いますので、あれこれなだめすかしておこうといたしまして遅れました」
と申されたので、
「どうして心強くも六代殿をお連れなさらぬのか」
と言われた。維盛卿は、
「この先々も、頼もしくは思われません」
といって、問われてさらにつらさがまさり、涙を流されたのは悲しいことであった。
妻子との別れを惜しんで遅れた維盛を筆頭とする、重盛の子ら平家”小松殿の公達”6人は、淀で、徳子・安徳天皇の一団に追いつきます。他の平家の者たちが、妻子もつれていたのに対し、維盛は妻と幼い子を都に残しました。六代殿、と書かれているのは維盛の嫡男。当時10歳前後だったと書かれています。
維盛は自身と平家の命運を悟っていたのでしょう。
平家一門の中にも、離脱する者はあったようです。清盛の異母弟、頼盛は池の禅尼の子。池の禅尼が嘆願し、頼朝が生き延びた縁を頼り、離脱しました。しかし、離れる一門の者は少数でした。同族での対立の目立つ源氏に対し、平家は一門の結束は固く、一族が運命を共にして滅びてゆくのです。
今回はここまで。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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