今回訪れたのは、京都北東の大原。京都駅からバスなら1時間のところにある、里山です。大原のバス停からゆっくり20分ほど歩いて、寂光院を訪ねました。この寂光院、源平合戦で敗れた平氏の姫、平清盛の娘である建礼門院徳子、それに後白河法皇ゆかりの寺です。「鎌倉殿の13人」には二人はどのように描かれるでしょうね。
【おすすめ】
和をまとう、和を楽しむ
日本最大級!オーディオブックなら - audiobook.jp大原散策
気持ちの良い、梅雨の晴れ間。ウォーキングのつもりで、スニーカーで訪れるのが良さそうです。
可愛らしい、大原女のお地蔵さんが案内してくれます。
赤紫蘇が、植えられていました。赤しそを使ったお漬物を、建礼門院が喜んだ、というエピソードがあるのだそう。
手入れの行き届いた山里の風景は、どこかほっとするもの。この道も、楽しみの一つですね。寂光院は、バス停から歩くこと、20分ほど。水分補給もしながら進みましょう。
寂光院
寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しない。
鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院によって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されている。(ホームページより)
旧本尊と同じ大きさ、つくりの現在の「六万体地蔵菩薩立像」に詣で、お寺の方の解説を聞くことができます。
建礼門院徳子、ゆかりの寺
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。』
『平家物語』の冒頭です。『平家物語』は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いた物語。
皆さん一度は、古文で学んだのではないでしょうか。美しい表現が並ぶ冒頭の、語感の良さ。声に出して読みたくなりますよね。『平家物語』は平氏をヒーロー、源氏を悪役として描いたのではなく、仏教的な世界観、無常観が全体のテーマです。修飾的で、美しく、琵琶法師が吟ずる様子がぴたりとはまりそうです。
さて、この『平家物語』に描かれた方で、建礼門院徳子という女性が、平家没落後に過ごされたお寺が、今回ご紹介する寂光院です。
建礼門院徳子は、あの平清盛の娘。高倉天皇の中宮で、安徳天皇の母です。安徳天皇は源平合戦の際、平家に擁され、壇ノ浦で入水、8歳の幼さで亡くなっています。建礼門院は入水するも助けられ、再び京に戻ってきました。実家の一族が滅び、わが子を亡くす。とても悲劇的な運命を辿った方でした。
建礼門院は、長楽寺で出家した後、阿波内侍を頼って、寂光院に入られました。
阿波内侍と言えば、以前安井金毘羅宮の記事でも、紹介しました。崇徳天皇の寵姫で、後に彼女を守るため、安井金毘羅宮に術が施されたのでは?という、エピソードをもつ方です。阿波内侍は、宮中では建礼門院に仕えていたようで、その縁を建礼門院が頼った、ということのようです。
『平家物語』に描かれた寂光院と建礼門院
『平家物語』の終盤、「大原行幸」では、後白河法皇がこの寂光院に建礼門院を訪ねて、行幸したくだりが描かれていますが、これは壇ノ浦の戦いから1年後、1186年春のことです。
平家物語の中に記述のある松は、樹齢千年のご神木「千年姫小松」といい、2000年(平成12年)の火災により、枯れてしまったそうです。現在は切株に注連縄を施され、鎮座しています。後白河法皇が歌に詠んだ汀(みぎわ)の桜も、残っています。
本堂横の小さな西門をくぐってすぐ、建礼門院の御庵室跡があります。この場所で、彼女は寝起きしたのですね。
宮中のように煌びやかではなくとも
後白河法皇が彼女を訪ねて行幸した時、彼女は花摘みに出ていたようです。
『花を自身の手で摘まねばならない、調度も整わない狭い庵に寝起きしなければならない(意訳)』と後白河法皇は、彼女の変化に涙を流します。これに対し彼女は
「今かかる身になり候ふことは、一旦の嘆き申すに及び候はねども、後生菩提のためには、よろこびと思え候ふなり。」
「今はこのような身になって、一時の嘆きで申すまでもございませんが、後生菩提(来世に極楽に生まれて悟りを開くこと)のためを思えば、むしろうれしいことに思えます。」
と応えます。
「五障三従の苦しみを逃れ、三時に六根を清めて、一筋に九品の浄刹を願ひ、専ら一門の菩提を祈り、常には聖衆の来迎を期す。いつの世にも忘れ難きは、先帝の御面影、忘れんとすれども忘られず、忍ばんとすれども忍ばれず。ただ恩愛の道ほど、悲しかりけることはなし。さればかの御菩提のために、朝夕の勤め怠ること候はず。これもしかるべき善知識と思え候ふ」
「五障三従(女性の身が負うという宿命的なもの、[五障]=女性は修行しても、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏にはなれないこと、[三従]=結婚前には父に、結婚後は夫に、夫の死後は子に従うこと)の苦しみを逃れ、三時に(日に6回)六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清めて、一心に九品の浄刹(極楽浄土)に往生することを願い、ひたすら平家一門の菩提を祈り、いつも聖衆(極楽浄土の諸菩薩)が来迎することを期待するのです。いつの世にも忘れ難いのは、先帝(安徳天皇)の面影、忘れようとしても忘れることはできず、悲しみを堪えようとしても堪え切れないのです。本当に親子の愛情ほど、悲しいものはありません。それを思えば先帝の菩提のために、朝夕の勤め(勤行)を怠ることはできません。このことすなわち善知識(人を仏道へ導く機縁となるもの)なのでしょう」
二人は語り合い、建礼門院は壇ノ浦の戦いまでの、苦悩、自分の子が入水し果てる哀しみを語ります。平家物語が描いた二人の語らいの様子は、実際になされたかは分かりませんが、建礼門院徳子の心情は、本当にこのようなものだったかもしれません。
私見ですが、五障三従の苦しみを逃れ、という言葉にも多くの思いがこもっているように思います。三従(結婚前には父に、結婚後は夫に、夫の死後は子に従うこと)のために運命も生活も自分で選ぶわけにはいかなっかた建礼門院。そんな中、一族の生活が一変し、わが子を奪われてしまった彼女は、きっとやるせない思いと無力感を抱えたのではないでしょうか。
出家して初めて、女人だけの庵に入り、こじんまりとはしていても、自身の裁量で整えられる空間を得、自身で生活の細々したことを決められるようになったのかもしれません。実家も婚家も、自分に干渉してこない環境。『花を自身の手で摘まねばならない、調度も整わない狭い庵に寝起きしなければならない』と後白河法皇は哀れんでいますが、もしかすると、建礼門院には大きなお世話だったのかもしれないな、とさえ思います。
戦も、権勢も、必要以上の富も、いらないではないか。居所を清潔に整え、身を清め、山里の花を摘み、農村の人々と言葉を交わす。それを、修行だから、というだけでなく、楽しんでいらっしゃったかもしれません。そうであってほしいと思います。
山里の人々に慕われて
大原の山里の人々から、赤紫蘇を使った野菜の漬物を届けてもらい、その味に喜んだという、建礼門院徳子。京の柴漬けに、この大原の赤紫蘇は今も欠かせません。彼女と山里の人々の交流の一端が垣間見えます。建礼門院を支えた阿波内侍は、大原女(おおはらめ)のモデルとも言われています。彼女たちは人々に慕われ、愛されたのでしょう。
寂光院から30分ほどのところには、三千院があります。そちらへの道沿いに谷川があり小さな滝が、見られます。そこに、建礼門院が詠んだ詠歌が記されていました。
『ころころと 小石流るる谷川の 河塵なくなる 落合の滝』
山里に暮らしかろやかになった、彼女の心情を現しているようで、素敵です。彼女は36歳で亡くなるまで寂光院で暮らしました。皆様もぜひ、寂光院を訪れる際は、畑や草花、山里の風景も併せて楽しんでみてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
【おすすめ】
京都の和雑貨、ギフトにどうぞ
着物と浴衣、晴れ着、和装小物通販のお店が提案する【京都きもの町のギフト特集】
コメント