芥川龍之介が『今昔物語』の「六の宮」をもとに書いた短編小説。舞台は、京都。内裏からは南に少し下ったところ、現在の「六孫王神社」のある辺りが、六の宮と呼ばれていたようです。
芥川龍之介の作品は、著作権自体は切れていますので、概略からご紹介しましょう。
ハルキ文庫「地獄変」
芥川作品のうち、「地獄変」「藪の中」「六の宮の姫君」「舞踏会」が収められています。
耳で聞く、読書はいかが?
日本最大級!オーディオブックなら - audiobook.jp六の宮の姫君 概略
身分のある、昔気質の両親に寵愛されて育った姫が主人公です。
父母は姫君を寵愛した。しかしやはり昔風に、進んでは誰にもめあわせなかった。誰かいい寄る人があればと、心待ちに待つばかりだった。姫君も父母の教え通り、つつましい朝夕を送っていた。それは悲しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯だった。が、世間見ずの姫君は、格別不満も感じなかった。「父母さえ達者でいてくれればいい。」姫君はそう思っていた。
哀しみも知らないと同時に、喜びも知らない生涯。このことが、この物語の根底に一貫してある問題なのです。
姫が年頃になったころ、父母が相次いで他界。姫は途方に暮れるばかりで、家を取り仕切ろうとはしません。家財が売られて減っても、召使が辞めていっても、です。姫のために乳母が、骨身を惜しまず働いてくれていました。その乳母が見かねて、結婚を勧めれば、しかたがない、と思いながら泣くのです。いざ、その男性と結婚し、申し分ない相手に大事にされ、生活も上向きましたが、やはり、「姫君はそういう変化も、寂しそうに見ているばかり」でした。
「なりゆきに任せるほかはない」
それが姫の考えの全てになってしまっているのです。
あるとき突然男性から別れを告げられてしまいます。陸奥守に任じられた父とともに、男は常陸国に五年間赴任することになったのです。
「しかし五年たてば任終じゃ。その時を楽しみに待ってたもれ。」
そう言って、男性は去ってしまいます。あるいは完全に帰らない、と断ち切ってくれれば良かったのでしょうか。姫の生活は落ちぶれますが、じっと男性を待ち続けます。六年目には、乳母はその男性を諦め、別の結婚をしては、と勧めます。しかし、待つことで疲れ果てた姫は、「ただ静かに朽ち果てたい。」そのほかは何も考えませんでした。
九年目の晩秋、男性が京都に帰ってきました。男性は何日も姫を探し回ります。そして、同じく姫を探す、あの時の乳母とともに(乳母は自身の夫の都合で姫の元を去っていたようです)、変わり果てた姫を見つけるのです。
朱雀門の前にある、西の曲殿(守衛所のような建物)。その窓の中に、尼に介抱されている、不気味なほど痩せ枯れた姫の姿。慌てて乳母が抱きかかえると、姫が臨終を迎えるところだと、気付いたのでしょう。乳母は近くにいた、乞食法師に走り寄り、経を読んでくれるよう頼みます。
法師は、乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。が、経文を読誦する代わりに、姫君にこう言葉をかけた。
「往生は人手に出来るものではござらぬ。ただご自身怠らずに、阿弥陀仏の御名をお唱えなされ。」
姫ははじめこそ仏名を唱えますが、幻覚に怯え、すぐに止めてしまいます。一心に唱えろと法師に言われるのに、姫は取り合わず、「何も、何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、冷たい風ばかり吹いてまいりまする。」そう言って、こと切れてしまいます。
何日かのち、あの法師はやはり、朱雀門の曲殿にいました。そして、霊が出るという噂を聞きつけた侍が、そのことを問いかけると、二人の耳に、女の嘆き声が聞こえました。法師は言います。
「御仏を念じておやりなされ。」
「あれは極楽も地獄も知らぬ、不甲斐ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
いかがでしょうか。これがこのお話のあらましです。
「人として生きる」ことを問う
教育や、その時代に女性が出来た処世術という観点から考えると、姫君のような人生は悪である、とは糾弾できませんよね。現代に於いてさえ、そういった自分自身だけでは覆せない場面に遭遇するのですから。
姫は父母に、自分で考え行動することをほとんど禁じられていたでしょう。また結婚相手も姫に対し、運命に逆らえなかった子供の物語を聞かせているのです。
環境が、このような無気力な人物像を作り上げる、大きな要因になったことは確かです。
それでも、姫自身の思いや行動がここまでない、というのは、本人の気質もなかなかです。豊かなままの人生であっても、誰かの真似でしかない、誰かが求めた姿でしかない、そんな女性になっていたでしょう。
芥川は、そんな姫を、引いた目線で、ほとんど突き放すような筆致で描いています。
物語が書かれた背景・時代が求める「人」の姿
芥川はこの物語を「今昔物語」を元に書いています。平安時代の末期に成立したとされる「今昔物語」。その100年~200年前には清少納言や、紫式部といった作家が誕生し書いているように、また、様々な和歌に詠まれているように、女性はけして物を考えない人形ではなかった時代です。権利は男性に及ばなくとも、女性を憧憬し、無碍には扱わない風潮は、戦国以降の時代より進んでさえいたとさえ、思います。
それを想えば、あまりの他人任せの女性を、教訓のために創作した、というのが物語の原型かもしれません。
芥川の活躍した明治・大正時代も、「自覚ある女性」を求め始めた時代。新進気鋭の小説家も、こぞってもの言う女性、わがままで魅力的な女性を書き始めていました。そんな時代に、芥川もこの物語を発表しているんですね。
男も女も自分の考えを以て行動するように。それは、人生という修行の第一歩かもしれません。
誰かに決められたから、その通りにすればよい。という生き方は、楽ではあるのです。責任も、その誰か、に押し付けられるのですから。しかし、やはり、つまらない。
責任をしっかり負ってでも、自分の決めた道を歩きたいものです。
「六孫王神社」
「六の宮の姫君」の舞台となった「六の宮」には「六孫王神社」が建っています。
この神社の名前、六尊王は、源経基のこと。清和天皇の孫にあたり、清和源氏の初代です。平安時代初め頃、西八条壬生(現在の神社のある辺り)に屋敷をもっていました。その地は平安末期には平家のものとなり、また鎌倉時代に源氏のものとなります。鎌倉幕府が三代で途絶えたとき、三代将軍の正室が、この地に「大通寺」を建て、鎮守社として「六尊王神社」を再建します。明治になって、「大通寺」は移転、「六孫王神社」が今もこの地に残っているようです。
六の宮の姫君が、生まれ育ったのがこの地。姫の父は古い宮腹の生まれ、と書かれていますから、清和源氏の家系がモデルになっているかもしれません。姫は、落ちぶれて、屋敷を出るまでこの地にいたことになります。
息を引き取ったのは朱雀門の曲殿、といいますから京都の南の端の門。その曲殿は守衛所のようなところ。何とも、わびしい、最期です。
その「六孫王神社」。物語を読んだら、訪れてみては?小さい神社はひっそりとたたずみ、混み合いません。京都駅から15分ほど歩けば到着します。JRが近いので電車の音や、新幹線の音はしていますが。
私は2月に訪れていますが、どなたにも会わず、のんびりまわりました。
<神龍池>にはかわいい太鼓橋がかかっています。基経が死後は龍神となり、その池に住まい、子孫繁栄を見守る、と言い残したそうです。
桜の木がたくさんあり、春を待っていました。
四月頃にまた行きたいと思います。桜をこじんまりと観るのにも穴場かもしれません。
関連イベント 京都十六社朱印めぐり
このイベントが2月15日まで行われているようです。「六孫王神社」もそのひとつです。ご興味あれば、めぐってみては?
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